昨日の話の続き。
曹操の子のひとり曹均は、曹操の子の中で、本人または直系(後継ぎ)の子孫が残っていた家としては唯一「王」になれず、「公」のままだったらしいと書いた。
昨日は理由がよくわからないと結論づけたのだが、ツイッターにて以下のようなご指摘をいただいた。
長男だけ張夫人との間の子で、張繡の血を引いていたから…とかだと冷遇されるのはありえそうですよね
— たく(TaC) (@sangokusi1219) 2022年8月9日
つまり、曹均はあの張繍の娘を妻としている、ということだ。後を継いだ曹均の嫡子も張繍の孫と言う可能性が高い。
なるほど、それなら確かに曹操・曹丕に嫌われ続けてもおかしくはない。
とはいえ、嫌われただけなら最終的には王になった曹茂だって同列だったのではないか、とも思える。
では、張繍の縁戚だったとして、王になれなかった理由になるのか?
一つ、思い当たる事がある。
(張)繡至、太祖執其手、與歡宴、為子均取繡女、拜揚武將軍。官渡之役、繡力戰有功、遷破羌將軍。從破袁譚於南皮、復增邑凡二千戸。是時天下戸口減耗、十裁一在、諸將封未有滿千戸者、而繡特多。從征烏丸于柳城、未至、薨、諡曰定侯。
子泉嗣、坐與魏諷謀反誅、國除。
(『三国志』巻八、張繍伝)
張繍が曹操に降伏すると、確かに曹操は息子曹均と張繍の娘を縁組している。
そして、張繍も曹均も死んでいる頃、張繍の後継ぎ張泉は、かの魏諷の反乱計画に加担した罪で処刑され、国もお取り潰しになった。
張泉は曹均の妻張氏の兄弟。曹均の後を継いだ子の曹抗からすると、張泉は母(実母かどうかはともかく父の正妻だろうから嫡子は彼女を母として扱うはずである)の兄弟つまり「おじ」。
普通なら、張泉の反乱計画への関与を疑われるであろう立場であり、連座してもおかしくない。
となると、曹抗は国を失ったりしなかっただけでも御の字であろう。謀反への関与疑惑という、嫌われッ子曹茂なんか目じゃない汚点が魏王朝成立時点で曹均の家にはすでに存在していたのである。
これでは、その後も王になれないというのも納得できる。
そして、先述のツイートでも指摘されているように、他の親戚筋に養子に行って王になった者たちについては、張繍の血を引いておらず関係が薄い庶子なのだとすれば、張繍の子張泉との関わりで疑われ続けた本家のような冷や飯は食わずに済んだというのも理解できるかもしれない。
なるほど、「張繍との縁組」と「魏諷」の二つを合わせて考えれば、少なくとも曹均本家の冷遇に辻褄の合う理由が確認できる、ということになる。