『漢書』王莽伝を読んでみよう:下その16

その15の続き。


是歳、罷大小錢、更行貨布、長二寸五分、廣一寸、直貨錢二十五。貨錢徑一寸、重五銖、枚直一。両品並行。敢盜鑄錢及偏行布貨、伍人知不發舉、皆沒入為官奴婢。
太傅平晏死、以予虞唐尊為太傅。尊曰「國虚民貧、咎在奢泰。」乃身短衣小褏、乗牝馬柴車、藉槀、瓦器、又以歴遺公卿。出見男女不異路者、尊自下車、以象刑赭幡汙染其衣。莽聞而説之、下詔申敕公卿思與厥齊、封尊為平化侯。
是時、南郡張霸・江夏羊牧・王匡等起雲杜䖝林、號曰下江兵、衆皆萬餘人。
武功中水郷民三舍墊為池。
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)

この年、大銭・小銭を止めて貨布を通用させることにした。貨布は長さ二寸五分、広さ一寸で、貨銭二十五枚分の価値とした。貨銭は直径一寸、重さ五銖、一枚で銭一枚の価値とした。この二種類を同時に通用するようにした。盗鋳する者、および一方だけを通用させようとする者と、五人組の中でそれを知りながら告発しなかった者は、みな官奴婢とした。



太傅の平晏が死去し、予虞の唐尊を太傅とした。
唐尊は「国家財政が逼迫し民が貧しいのは、贅沢しすぎていたことの咎なのである」と言い、袖の小さい短い衣を着用し、牝馬が引くみずぼらしい馬車に乗り、むしろの敷物を使わず、瓦の器を使い、他の大臣たちをもてなす時にも瓦の器を使った。
外出時に男女が一緒に歩いているのを見ると、唐尊は自ら馬車を降りて罪人の象徴としてその者の衣服を赤く染めさせた。王莽はこれを聞いて喜び、大臣たちに同じようになるようにと申し伝え、唐尊を平化侯に封建した。



この時、南郡の張覇、江夏郡の羊牧・王匡らが雲杜県の緑林で挙兵し、「下江兵」と名乗り、万単位の人が集まった。



武功県の水のそばの郷の民家三軒が陥没して池になった。



王莽、また貨幣制度を改変するの巻。



後五歳、天鳳元年、復申下金銀龜貝之貨、頗筯減其賈直。而罷大小錢、改作貨布、長二寸五分、廣一寸、首長八分有奇、廣八分、其圜好徑二分半、足枝長八分、間廣二分、其文右曰「貨」、左曰「布」、重二十五銖、直貨泉二十五。貨泉徑一寸、重五銖、文右曰「貨」、左曰「泉」、枚直一、與貨布二品並行。
又以大錢行久、罷之、恐民挾不止、乃令民且獨行大錢、與新貨泉倶枚直一、並行盡六年、毋得復挾大錢矣。
毎壹易錢、民用破業、而大陷刑。
莽以私鑄錢死、及非沮寶貨投四裔、犯法者多、不可勝行、乃更輕其法。私鑄作泉布者、與妻子沒入為官奴婢。吏及比伍、知而不舉告、與同罪。非沮寶貨、民罰作一歳、吏免官。
犯者俞衆、及五人相坐皆沒入、郡國檻車鐵鎖、傳送長安鍾官、愁苦死者什六七。
(『漢書』巻二十四下、食貨志下)


ただ、『漢書』食貨志では「貨布」を使い始めた時期が本文とは違うように思われる。


また、「貨銭」ではなく「貨泉」と言っている。「金」の字は「劉」に含まれているからということで避けようとしたのだろう



また、本文では五人組連坐と奴隷化について触れられているが、どうやら基本死刑だったそれまでよりも今回の措置は軽くなった、ということのようだ。軽くなって奴隷ってヤバイ。





緑林登場。

王莽末、南方飢饉、人庶羣入野澤、掘鳧茈而食之、更相侵奪。新市人王匡・王鳳為平理諍訟、遂推為渠帥、衆數百人。於是諸亡命馬武・王常・成丹等往從之。共攻離郷聚、臧於䖝林中、數月輭至七八千人。
地皇二年、荊州牧某發奔命二萬人攻之、匡等相率迎撃於雲杜。大破牧軍、殺數千人、盡獲輜重、遂攻拔竟陵。轉撃雲杜・安陸、多略婦女、還入䖝林中、至有五萬餘口、州郡不能制。
・・・(中略)・・・於是大赦天下、建元曰更始元年。悉拜置諸將、以族父良為國三老、王匡為定國上公、王鳳成國上公、朱鮪大司馬、伯升大司徒、陳牧大司空、餘皆九卿・將軍。
(『後漢書』列伝第一、劉玄伝)


ここで言われている王匡は後に劉玄(更始帝)の元で「定国上公」となる王匡。




段々、「後漢」が近づいてきた。