『漢書』王莽伝を読んでみよう:下その6

その5の続き。


事連及司命孔仁妻、亦自殺。
仁見莽免冠謝、莽使尚書劾仁「乗乾車、駕巛馬、左蒼龍、右白虎、前朱雀、後玄武、右杖威節、左負威斗、號曰赤星、非以驕仁、乃以尊新室之威命也。仁擅免天文冠、大不敬。」有詔勿劾、更易新冠。其好怪如此。
以直道侯王渉為衛將軍。渉者、曲陽侯根子也。根、成帝世為大司馬、薦莽自代、莽恩之、以為曲陽非令稱、乃追諡根曰直道讓公、渉嗣其爵。
是歳、赤眉力子都・樊崇等以饑饉相聚、起於琅邪、轉鈔掠、衆皆萬數。遣使者發郡國兵撃之、不能克。
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)

王宗らの事件は司命の孔仁の妻にまで波及し、孔仁の妻も自殺した。



孔仁は王莽に面会して冠を脱いで謝罪した。王莽は尚書に孔仁を弾劾させた。「乾を象った車に乗り、坤を象った馬に引かせ、左には蒼竜、右に白虎、前に朱雀、後ろに玄武を配置し、右は威節を持ち、左には威斗を背負い、赤星と号したのは、孔仁を驕りたかぶらせるためではなく、新王朝の権威を高めるためである。しかるに孔仁は勝手にそのための衣装である天文冠を脱いだ。大不敬である」詔によって弾劾を止めさせ、改めて新しい冠に変えさせた。
王莽が超自然的な力を信じる事はこのようであった。



直道侯王渉を衛将軍とした。王渉は曲陽侯王根の子である。王根は成帝の時の大司馬で、王莽が自分を継いで大司馬となるよう勧めたので、王莽は恩を感じていた。王莽は彼の侯国の「曲陽」は良い名ではないと考え、王根の諡を「直道譲公」と改め、王渉を直道侯の後継者とした。



この年、赤眉の力子都や樊崇らが飢饉のため結集して琅邪で挙兵して周囲を略奪して回り、人数は万単位に至った。王莽は使者を遣わして郡国の兵を徴発して討たせたが、赤眉に勝つことが出来なかった。




ついに赤眉登場。



力子都者、東海人也。起兵郷里、鈔撃徐・兗界、衆有六七萬。更始立、遣使降、拜子都徐州牧。為其部曲所殺、餘黨復相聚、與諸賊會於檀郷、因號為檀郷。
(『後漢書』列伝第十一、任光伝)

後數歳、琅邪人樊崇起兵於莒、衆百餘人、轉入太山、自號三老。
時青・徐大飢、寇賊蜂起、衆盜以崇勇猛、皆附之、一歳輭至萬餘人。崇同郡人逄安、東海人徐宣・謝祿・楊音、各起兵、合數萬人、復引從崇。共還攻莒、不能下、轉掠至姑幕、因撃王莽探湯侯田況、大破之、殺萬餘人、遂北入青州、所過虜掠。還至太山、留屯南城。
初、崇等以困窮為寇、無攻城徇地之計。衆既寖盛、乃相與為約。殺人者死、傷人者償創。以言辭為約束、無文書・旌旗・部曲・號令。其中最尊者號三老、次從事、次卒史、汎相稱曰巨人。
(『後漢書』列伝第一、劉盆子伝)

力子都と樊崇の勢力は別で、しかも出身や本拠も別であるようだ(遠いわけではないが)。



ただ、兗州・徐州・青州にまたがって彼らのような勢力が生まれ、王莽政権が対処し切れなくなっていたということは間違いないだろう。