滎陽郡開封県の鄭氏

鄭沖字文和、滎陽開封人也起自寒微、卓爾立操、清恬寡欲、耽玩經史、遂博究儒術及百家之言。有姿望、動必循禮、任真自守、不要郷曲之譽、由是州郡久不加禮。
(『晋書』巻三十三、鄭沖伝)

魏から晋にかけての儒者、滎陽郡開封県の鄭沖。彼は晋草創期の大臣になるが、「寒微」の出であり、地元での評判も求めなかったために中々世に出なかった、という。



鄭袤字林叔、滎陽開封人也。高祖衆、漢大司農。父泰、揚州刺史、有高名。袤少孤、早有識鑒。荀攸見之曰「鄭公業為不亡矣。」隨叔父渾避難江東。
(『晋書』巻四十四、鄭袤伝)

だが、同じ滎陽郡開封県の人鄭袤は、鄭興、鄭衆、鄭泰、鄭渾といった名儒名臣を漢代以来輩出し続けた家の出である。名家と言ってもいいだろう。





同じ滎陽郡開封県の人でもまるで違う。




元は同じ一族なのだろうとは思うが、かなり早い段階で枝分かれし、一方が栄達あるいは没落しても互いに関与しないような関係になっていたのではないだろうか。




このように、同じ出身(本貫)で同じ姓であっても家柄が大きく違うという例もある事は注意すべきだろう。