『晋書』武帝紀を読んでみよう:その23

その22(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/10/17/000100)の続き。





九年春正月辛酉、司空・密陵侯鄭袤薨。
二月癸巳、司徒・樂陵公石苞薨。
立安平亭侯隆為安平王。
三月、立皇子祗為東海王。
夏四月戊辰朔、日有蝕之。
五月、旱。
以太保何曾領司徒。
六月乙未、東海王祗薨。
秋七月丁酉朔、日有蝕之。
呉將魯淑圍弋陽、征虜將軍王渾撃敗之。
罷五官・左・右中郎將・弘訓太僕・衛尉・大長秋等官。
鮮卑寇廣寧、殺略五千人。
詔聘公卿以下子女以備六宮、采擇未畢、權禁斷婚姻。
冬十月辛巳、制女年十七父母不嫁者、使長吏配之。
十一月丁酉、臨宣武觀大閱諸軍、甲辰乃罷。
(『晋書』巻三、武帝紀)

泰始9年。


(司馬)邕字子魁。初為世子、拝歩兵校尉・侍中。先孚卒、追贈輔國將軍、諡曰貞。邕子崇為世孫、又早夭。泰始九年、立崇弟平陽亭侯隆為安平王。立四年、咸寧二年薨、諡曰穆。無子、國絶。
(『晋書』巻三十七、安平献王孚伝)

「安平亭侯隆」とは、列伝では「平陽亭侯隆」とされている。安平王だった司馬孚の孫である。安平王の後継ぎたる長男には先立たれ、その更に後継ぎの孫にも先立たれていたため、別の孫を新たに王にしたのである。


だがこの安平王司馬隆も早死にするのだった。



(魯)肅遺腹子淑既壯、濡須督張承謂終當到至。永安中、為昭武將軍・都亭侯・武昌督。建衡中、假節、遷夏口督。所在嚴整、有方幹。鳳皇三年卒。子睦襲爵、領兵馬。
(『三国志』巻五十四、魯粛伝)

弋陽を攻めた魯淑というのはあの魯粛の子。「遺腹子」なので、魯粛が死んでから生まれた子である。だとするとまだ案外若い。


轉征虜將軍・監豫州諸軍事・假節、領豫州刺史。(王)渾與呉接境、宣布威信、前後降附甚多。呉將薛瑩・魯淑衆號十萬、淑向弋陽、瑩向新息。時州兵並放休息、衆裁一旅、浮淮潛濟、出其不意、瑩等不虞晉師之至。渾撃破之、以功封次子尚為關内侯。
(『晋書』巻四十二、王渾伝)


王渾は王昶の子。いわゆる太原王氏である。





五官中郎将・左中郎将・右中郎将を廃止。虎賁と羽林だけ残されたか。




また、臣下の娘を後宮に入れたり、世の17歳以上の女性を結婚させようとしたり、といった事もあった。