仲長統『昌言』法誡篇を読んでみよう:その1

損益篇の次は法誡篇。





法誡篇曰
周禮六典、冢宰貳王而理天下。春秋之時、諸侯明徳者,皆一卿為政。爰及戰國、亦皆然也。秦兼天下、則置丞相、而貳之以御史大夫。自高帝逮于孝成、因而不改、多終其身。漢之隆盛、是惟在焉。夫任一人則政專、任數人則相倚。政專則和諧、相倚則違戻。和諧則太平之所興也、違戻則荒亂之所起也。光武皇帝慍數世之失權、忿彊臣之竊命、矯枉過直、政不任下、雖置三公、事歸臺閣。自此以來、三公之職、備員而已、然政有不理、猶加譴責。而權移外戚之家、寵被近習之豎、親其黨類、用其私人、内充京師、外布列郡、顛倒賢愚、貿易選舉、疲駑守境、貪殘牧民、撓擾百姓、忿怒四夷、招致乖叛、亂離斯瘼。怨氣並作、陰陽失和、三光虧缺、怪異數至、蟲螟食稼、水旱為灾、此皆戚宦之臣所致然也。反以策讓三公、至於死免、乃足為叫呼蒼天、號咷泣血者也。又中世之選三公也、務於清慤謹慎、循常習故者。是婦女之檢柙、郷曲之常人耳、惡足以居斯位邪?埶既如彼、選又如此、而欲望三公勳立於國家、績加於生民、不亦遠乎?
(『後漢書』列伝第三十九、仲長統伝)

『周礼』の六典によると、冢宰が周王の補佐となって天下を治めた。春秋時代は諸侯の徳のある者が卿となって政治を行い、戦国時代でもそうだった。秦になって丞相を置き、御史大夫がその補佐となった。高祖から成帝まで改められず、多くの者が身を全うした。漢の隆盛はこれによるのである。


一人に任せれば政治は専任され、数人に任せれば互いに頼り合うようになる。政治が専任されれば調和し、頼り合うと誤りが起こるようになる。調和は太平を興すものであり、誤りは荒廃の原因である。


光武皇帝はそれまでの何代かの皇帝が権力を失い強い臣下が天命を盗んだ事を怒って矯正が度を過ぎ、政治を下々に任せず、三公が置かれたといっても政治は尚書台が中心となった。これ以降、三公の職は人数が揃うだけで実権が無く、それでも何か政治上の問題があると譴責を受けた。



そうして権力は外戚に移り、宦官が寵愛されるようになり、外戚や宦官一党が朝廷や各地の要職を占め、賢者と愚者の地位が逆転し、人材登用は金で取引され、弱い者が辺境を守り、貪欲で残忍な官吏が民を治め、人々を騒がせ、四方の異民族を怒らせ、離反を招き、騒乱が起こった。恨みが沸き起こり、陰陽の調和は崩れ、太陽と月と星の光は欠け、異常現象が頻発し、イナゴが作物を食い荒らし、水害や旱魃の災害が発生した。これらはみな外戚や宦官によって起こった事である。それなのにかえって三公を譴責して死なせるまでになっていた。天に対して血を吐くほど泣き叫ぶほどのものである。



更にこれまでの三公の選定は清廉さや慎重さを基準としており、これまでの習わしを守る者であった。これは小さな事にこだわる婦女や小人であって、三公という地位に居るにふさわしい者であろうはずがない。


このような情勢で、このような人選を行っていて、三公が天下に対して功績がある事を期待したところで、程遠い話ではないか。






政治を一人の宰相に任せていた時代は良くて、三人の宰相(三公)を置いた前漢末以降、特に尚書に実権があった後漢はよろしくなかった、と説く。



その評価が正しいかはともかく、仲長統は後漢の政治の混乱の一因として実権の無い三公制度を挙げているようだ。複数いてもお互いに責任逃れのような事になる、と言っているようなので、根本的に一人の宰相に政治を任せるべき、と思っているようだ。



これは完全に後漢末の丞相復活と関連した発言だ。どちらが先だったかはともかく、周や前漢のように強力な宰相に全部任せるべきだ、という当時の事実上の主権者の追い風になるような見解だったのは間違いない。




もっとも、後漢を乱したのは外戚や宦官だ、と言っているので、宦官の家出身で後には自らが外戚となった魏公・丞相にとっては耳の痛い部分も無くはないが。