持てんの弓矢

丞相公孫弘奏言「民不得挾弓弩。十賊彍弩、百吏不敢前、盜賊不輒伏辜、免脱者衆、害寡而利多、此盜賊所以蕃也。 禁民不得挾弓弩、則盜賊執短兵、短兵接則衆者勝。以衆吏捕寡賊、其勢必得。盜賊有害無利、則莫犯法、刑錯之道也。臣愚以為禁民毋得挾弓弩便。」上下其議。
(『漢書』巻六十四上、吾丘寿王伝)

漢の武帝の時、丞相公孫弘は民が弓や弩を所持することを禁止するという法案を皇帝に上奏したことがあった。




弩を使う賊は10倍の役人でも取り押さえられないと言われているらしく、弓弩を所持する賊は取り締まることも難しい。



だが最初から弓弩を禁止していれば賊も近接兵器しか使えない。近接戦闘なら「戦は数だよ」なので役人側に有利である、ということだそうだ。





(吾丘)壽王對曰、臣聞古者作五兵、非以相害、以禁暴討邪也。安居則以制猛獸而備非常、有事則以設守衛而施行陣。及至周室衰微、上無明王、諸侯力政、彊侵弱、衆暴寡、海内抏敝、巧詐並生。是以知者陷愚、勇者威怯、苟以得勝為務、不顧義理。故機變械飾、所以相賊害之具不可勝數。於是秦兼天下、廢王道、立私議、滅詩書而首法令、去仁恩而任刑戮、墮名城、殺豪桀、銷甲兵、折鋒刃。其後、民以耰鉏箠梃相撻撃、犯法滋衆、盜賊不勝、至於赭衣塞路、羣盜滿山、卒以亂亡。故聖王務教化而省禁防、知其不足恃也。
今陛下昭明徳、建太平、舉俊材、興學官、三公有司或由窮巷、起白屋、裂地而封、宇内日化、方外郷風、 然而盜賊猶有者、郡國二千石之罪、非挾弓弩之過也。禮曰男子生、桑弧蓬矢以舉之、明示有事也、孔子曰「吾何執?執射乎?」大射之禮、自天子降及庶人、三代之道也。詩云「大侯既抗、弓矢斯張、射夫既同、獻爾發功」、言貴中也。 愚聞聖王合射以明教矣、未聞弓矢之為禁也。且所為禁者、為盜賊之以攻奪也。攻奪之罪死、然而不止者、大姦之於重誅固不避也。臣恐邪人挾之而吏不能止、良民以自備而抵法禁、是擅賊威而奪民救也。竊以為無益於禁姦、而廢先王之典、使學者不得習行其禮、大不便。
書奏、上以難丞相弘。弘詘服焉。
(『漢書』巻六十四上、吾丘寿王伝)

それに対し、皇帝お抱え論客の吾丘寿王(人名)はこう反論した。




「弓のような兵器は古の聖王の時代からあるもので、お互いに危害を加えるためのものではなく危険な動物を退治したり非常事態に備えたりするためのものなのです。周王の権力が衰微して世が世紀末となったから武器による被害が増えたのです。秦は武器を民から取り上げましたが賊が減りましたか・・・?」



「今の天子は大変立派な方であるのに賊が多いというのは、郡の太守の責任であり、弓弩のせいではありません。それに弓のことは礼制や詩経にもあるもので、聖王は弓の射撃をもとに教化することはあっても弓矢を禁止することはありませんでした。」



「悪者が弓弩を所持したら役人は止めることができないのに、善良な一般人はそんな悪者から自衛するための弓弩を所持したら法に触れるとしたら、これは悪人をのさばらせて善良な一般人の救済手段を取り上げるようなものではないでしょうか」




武帝はこの反論をもって丞相を論難し、丞相もそれに服したのだった。






近現代アメリカが銃社会なら、この時代はさしづめ弩社会か(語呂悪い)。




「悪いのは人であって武器ではない」「善良な人々の自衛手段を奪うのか」あたりはテンプレ化して色々な禁止案への反対意見に使えそうな感じが凄い。