陳国の変遷

及獻帝初、義兵起、(劉)寵率衆屯陽夏、自稱輔漢大將軍。國相會稽駱俊素有威恩、時天下飢荒、鄰郡人多歸就之、俊傾資賑贍、並得全活。
袁術求糧於陳而俊拒絕之、術忿恚、遣客詐殺俊及寵、陳由是破敗。
是時諸國無復租祿、而數見虜奪、并日而食、轉死溝壑者甚衆。夫人姬妾多為丹陵兵・烏桓所略云。
(『後漢書』列伝第四十、陳敬王羨伝)

十二月、雍丘潰、(張)超自殺。夷(張)邈三族。邈詣袁術請救、為其衆所殺、兗州平。遂東略陳地。
是歳、長安亂、天子東遷、敗于曹陽、渡河幸安邑。
建安元年春正月、太祖軍臨武平、袁術所置陳相袁嗣降。
・・・(中略)・・・
(建安二年)秋九月、術侵陳、公東征之。術聞公自來、棄軍走、留其將橋蕤・李豊・梁綱・樂就。公到、撃破蕤等、皆斬之。
(『三国志』巻一、武帝紀)

後漢末の陳国は陳王劉寵のお陰で黄巾の乱から守られたとされるので、その時点では割と戸数が減っていなかった可能性もある。



だが建安元年以前よりどうやら袁術が手を伸ばしていて、そこに魏武が進出。どこまで戦闘が行われたかはともかく、両勢力が陣取り睨みあう地になった。



ここで戸数が減ったのかもしれないし、陳王の伝の方にある「是時諸國無復租祿、而數見虜奪、并日而食、轉死溝壑者甚衆」によって民も多くが死んだり逃げたりしたのかもしれない。





というわけで、やはり陳国は袁術らの争奪の的になった事で戸数を減らしていたと考えられる。



曹操の封邑とされる4県3万戸が本当にあったのか、というあたりは疑問になるのかもしれない。平時ならそんな感じの戸数だったんだと思うが。




当時の曹操にふさわしい(名目上の)戸数とするため、戦乱以前の記録上の戸数(逃散などを減らさない)で数えていた、とかじゃないだろうか?