『後漢書』孝献帝紀を読んでみよう:その35

その34(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/06/10/000100)の続き。





十七年夏五月癸未、誅衛尉馬騰、夷三族。
六月庚寅晦、日有食之。
秋七月、洧水・潁水溢。螟。
八月、馬超涼州、殺刺史韋康。
九月庚戌、立皇子熙為濟陰王、懿為山陽王、𨘷為濟北王、敦為東海王。
冬十二月、星孛于五諸侯。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)

建安17年。



関中を追い払われた馬超、漢中の張魯と組んで涼州を荒らす。



この辺については、涼州の人間楊阜が危惧した通りになった




献帝の子、諸侯王となる。

山陽公載記曰、建安十七年、漢立皇子熙為濟陰王、懿為山陽王、敦為東海王。(許)靖聞之曰「『將欲歙之、必固張之。將欲取之、必固與之』。其孟徳之謂乎!」
(『三国志』巻三十八、許靖伝)


これについて、当時益州にいた許靖は「取ろうと思ったら、まず最初は与えておく」という事なのだ、と言ったという。