『後漢書』孝献帝紀を読んでみよう:その34

その33(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/06/09/000100)の続き。





十六年秋九月庚戌、曹操韓遂馬超戰於渭南、遂等大敗、關西平。
是歳、趙王赦薨。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)

建安16年。



この年、曹操韓遂馬超を破り、関中方面は統一に向かう。


それまでは小軍閥と言うべき連中が割拠し、とても緩やかに朝廷(曹操)の司隷校尉などに従いつつもたまに背いたり、といった感じだろうか。



十六年春正月、天子命公世子丕為五官中郎將、置官屬、為丞相副。
太原商曜等以大陵叛、遣夏侯淵徐晃圍破之。
張魯據漢中、三月、遣鍾繇討之。公使淵等出河東與繇會。
是時關中諸將疑繇欲自襲、馬超遂與韓遂・楊秋・李堪成宜等叛。
(『三国志』巻一、武帝紀)

曹操はこの年に曹丕を丞相の副とした、という。この措置を見たら誰もが「曹丕曹操の後継者になるんやな」と思う。事実上の後継者指名みたいなものだろう。



そして太原、関中と起こった反乱を鎮めていく。



だが関中については曹操側の張魯を討とうという動きが関中側の疑心を煽る事になったように書かれてもいる。失策があったのかもしれないし、そもそもが曹操側が関中の諸将を一網打尽にするための「誘い」だった可能性もあるかもしれない。


十六年、益州劉璋遙聞曹公將遣鍾繇等向漢中討張魯、内懷恐懼。別駕從事蜀郡張松説璋曰「曹公兵彊無敵於天下、若因張魯之資以取蜀土、誰能禦之者乎?」璋曰「吾固憂之而未有計。」松曰「劉豫州、使君之宗室而曹公之深讎也、善用兵、若使之討魯、魯必破。魯破、則益州彊、曹公雖來、無能為也。」璋然之、遣法正將四千人迎先主、前後賂遺以巨億計。
(『三国志』巻三十二、先主伝)


劉備益州に招かれたのもこの年。曹操が漢中の張魯を討とうとしたことが呼び水になったとされている。



玉突き的に各地の勢力図に影響が出ていき、曹操が触れていない間に劉備はどんどん大きくなっていくのだった。