『後漢書』孝献帝紀を読んでみよう:その11

その10(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/05/14/000100)の続き。





秋七月庚子、太尉馬日磾為太傅、録尚書事。
八月、遣日磾及太僕趙岐、持節慰撫天下。
車騎將軍皇甫嵩為太尉。司徒趙謙罷。
九月、李傕自為車騎將軍、郭汜後將軍、樊稠右將軍、張濟鎮東將軍。濟出屯弘農。
甲申、司空淳于嘉為司徒、光祿大夫楊彪為司空、並録尚書事。
冬十二月、太尉皇甫嵩免。光祿大夫周忠為太尉、參録尚書事。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)

初平3年(12月まで)。



太傅馬日磾らが東方へ。袁紹たちを落ち着かせるための使者である。



言い換えれば、朝廷はここで従うなら袁紹らを反乱者としては扱わない、といった宣言であると言えるだろう。



なお馬日磾は馬融の一族。趙岐は『孟子』注釈者として有名である。



(李)傕又遷車騎將軍、開府、領司隸校尉、假節。(郭)汜後將軍、(樊)稠右將軍、張濟為鎮東將軍、並封列侯。傕・汜・稠共秉朝政。濟出屯弘農。以賈詡為左馮翊、欲侯之。詡曰「此救命之計、何功之有!」固辭乃止。更以為尚書典選。
(『後漢書』列伝第六十二、董卓伝)

李傕ら、将軍になる。彼らは元は牛輔(董卓の娘婿)の校尉だったが、王允呂布を追い出して自ら将軍となった。


上記本紀上では「自為」と書かれており、『後漢書』本紀としては彼らの昇進は正式なものとは認められていないらしい。


李傕は司隸校尉と仮節も持ったことになっている。長安における警察権を握ったようなものか。



李傕とつるんでいる賈詡はあの賈詡である。尚書となって人事を司ったのであれば、むしろ李傕政権にとっては最も枢要の職に就いたと言っても過言ではないのではなかろうか。