曹操の関中支配への道のり

中郎將段煨屯華陰。
(『後漢書董卓伝)

三年、使謁者僕射裴茂詔關中諸將段煨等討李傕、夷三族。以段煨為安南將軍、封閺鄉侯。
(『後漢書董卓伝)

七年、乃拜騰征南將軍、遂征西將軍、並開府。後徴段煨為大鴻臚、病卒。
(『後漢書董卓伝)

賈詡と同郷ということでも有名な後漢末の将軍段煨。
彼は長安と洛陽の間、函谷関の西側にある弘農郡の華陰を本拠としていたらしい。

しかし確実な時期ははっきりしないものの、建安七年以降のどこかの時点で朝廷つまり曹操の監視下にある許県の皇帝に呼び出され、将軍は解任された。


時期的なものを考えると、たぶんこれは河東太守王邑の解任と前後する頃ではないだろうか。
袁紹との対決が一段落し、曹操が関中へと勢力圏を広げる過程で起こったことなのだろう。
おそらく、段煨更迭は司隸校尉鍾繇の弘農への進出と表裏一体の関係なのだと思う。


だが、関中諸将から見ると段煨や王邑の更迭は曹操による領土的野心から自分たちの既得権益が侵されているように見えたのではないだろうか。
王邑が解任されるや曹操の部下が太守になり、段煨が解任されるや鍾繇が進出し、と来ているのだ。
そこに馬騰が段煨・王邑と似た手口で呼び出され、しかも漢中攻めという話が出たことで、「もう騙されないぞ」とばかりに反乱が生じた、ということではないかと思う。