『後漢書』孝献帝紀を読んでみよう:その12

その11(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/05/15/000100)の続き。





四年春正月甲寅朔、日有食之。
丁卯、大赦天下。
三月、袁術殺楊州刺史陳温、據淮南。
長安宣平城門外屋自壞。
夏五月癸酉、無雲而雷。
六月、扶風大風、雨雹。華山崩裂。
太尉周忠免、太僕朱儁為太尉、録尚書事。
下邳賊闕宣自稱天下。
雨水。
遣侍御史裴茂訊詔獄、原輕繫。
六月辛丑、天狗西北行
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)

初平4年(6月まで)。



関東では袁術が揚州に割拠しようとする。


下邳闕宣聚眾數千人、自稱天子。徐州牧陶謙與共舉兵、取泰山華・費、略任城。
秋、太祖征陶謙、下十餘城、謙守城不敢出。
(『三国志』巻一、武帝紀)

初平四年、太祖征(陶)謙、攻拔十餘城、至彭城大戰。謙兵敗走、死者萬數、泗水為之不流。謙退守郯。太祖以糧少引軍還。
(『三国志』巻八、陶謙伝)

下邳の闕宣とやらはこの年の6月頃に天子を自称し、ほどなくして曹操が闕宣のいる徐州を攻めた事になる。


この年の曹操の攻撃で陶謙は多くの被害を出し、泗水が死体でせき止められたと記されている。



明年夏、大雨晝夜二十餘日、漂沒人庶、又風如冬時。
帝使御史裴茂訊詔獄、原繫者二百餘人。其中有為(李)傕所枉繫者、傕恐茂赦之、乃表奏茂擅出囚徒、疑有姦故、請收之。詔曰「災異屢降、陰雨為害、使者銜命宣布恩澤、原解輕微、庶合天心。欲釋冤結而復罪之乎!一切勿問。」
(『後漢書』列伝第六十二、董卓伝)


この時の赦免については、上記のように献帝の意思によるもので、李傕による横槍が入ったが跳ねのけた、という話が伝わっている。