『後漢書』孝献帝紀を読んでみよう:その3

その2(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/05/03/000100)の続き。





冬十月乙巳、葬靈思皇后。
白波賊寇河東、董卓遣其將牛輔撃之。
十一月癸酉、董卓自為相國。
十二月戊戌、司徒黄琬為太尉、司空楊彪為司徒、光祿勳荀爽為司空。
省扶風都尉、置漢安都護。
詔除光熹・昭寧・永漢三號、還復中平六年。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)

永漢元年から中平6年に戻った。



前回書いたように、普通に代替わりした場合なら先帝の元号をその年いっぱいは使う方が前漢後漢のスタンダードだったっぽい。



董卓と新たに三公となった面々は、この代替わりは何もおかしな事が起こらなかった平穏無事な継承であった、という事にしたかったのではなかろうか。



そうだとしたら一種の欺瞞であるが、なんにしても、こうして一度施行された元号は撤回されたのである。一度に三つも。


初、靈帝末、黄巾餘黨郭太等復起西河白波谷、轉寇太原、遂破河東、百姓流轉三輔、號為「白波賊」、衆十餘萬。
(董)卓遣中郎將牛輔撃之、不能却。
(『後漢書』列伝第六十二、董卓伝)

董卓が白波賊を討つために送った牛輔は、董卓の娘婿である。白波賊を危険視して信頼できる将を送り込んだのではなかろうか。だが牛輔は白波賊を退ける事は出来なかった。


河東郡は河南尹(洛陽)から見ると黄河の向こう側の隣郡であるから、河東郡から出てくるという事は洛陽の喉元まで刃が近付いてきている、と言う事も出来るだろう。



なお、白波賊出身とされるのが楊奉徐晃の元の上司)。また牛輔の部下だったのが董承だったとされている(『後漢書董卓伝)。



尋進(董)卓為相國、入朝不趨、劒履上殿。
封母為池陽君、置令丞。
是時洛中貴戚室第相望、金帛財産、家家殷積。卓縱放兵士、突其廬舍、淫略婦女、剽虜資物、謂之「搜牢」。人情崩恐、不保朝夕。及何后葬、開文陵、卓悉取藏中珍物。又姦亂公主、妻略宮人、虐刑濫罰、睚眦必死、羣僚内外莫能自固。卓嘗遣軍至陽城、時人會於社下、悉令就斬之、駕其車重、載其婦女、以頭繫車轅、歌呼而還。
(『後漢書』列伝第六十二、董卓伝)

この時期、董卓とその軍は洛陽で暴虐の限りを尽くしていたと記される。誇張も大きい事だろうとは思うが、急激に巨大化した董卓の軍を維持するために略奪を必要としたとかいった事情はあっただろう。




「漢安都護」については、「漢安郡」の事かもしれない、と以前記事にした事がある。