霊帝の皇太子

時小黄門京兆高望為尚藥監、倖於皇太子、太子因蹇碩屬望子進為孝廉、(蓋)勳不肯用。
或曰「皇太子副主、望其所愛、碩帝之寵臣、而子違之、所謂三怨成府者也。」勳曰「選賢所以報國也。非賢不舉、死亦何悔!」勳雖在外、毎軍國密事、帝常手詔問之。數加賞賜、甚見親信、在朝臣右。
(『後漢書』列伝第四十八、蓋勲伝)

後漢霊帝の頃の蓋勲は、宦官の蹇碩らの請託を受けなかった。



何でもこの請託は、皇太子の寵愛を受けている宦官高望の子を孝廉にしてほしい、というものだったという。


つまり皇太子の願いでもあったわけだ。




霊帝の皇子というと劉弁(少帝)と劉協(献帝)しかいないわけだが、『後漢書』孝霊帝紀・孝献帝紀には皇太子を立てたという記事が見当たらない。



だが、上記の記事を信用するなら、皇太子が実際は居た事になる。



年齢的にも、状況的にも、年長で何皇后の実子である劉弁の事だろう。




これは正式には立っていなかったが状況的に「皇太子」と通称されていたという事なのか、『後漢書』本紀に無いだけで実際に立太子されていたのか、あるいはこの記事が信用できない内容なのか。



どれだろうか。