『後漢書』によれば、献帝即位直後に「漢安都護」というものを置いた、とされている。
ただ、「都護」といえばそれまでは「西域都護」くらいなので、ここで出てくるとちょっと唐突感がないでもない。
獻帝起居注「中平六年、省扶風都尉置漢安郡。鎮雍・渝麋・杜陽・陳倉・汧五縣也。」
(『続漢書』志第十九、郡国志一、右扶風注引『献帝起居注』)
同じことを指していると思われる内容を、『献帝起居注』ではこう記述しているようだ。
それによれば「扶風都尉」の代わりに置いたのは「漢安郡」なのだそうだ。
こっちは理解できる。
おそらく、今まで「扶風都尉」の所轄だった右扶風所属の五県を分離独立させる形にし、役所や長官は「扶風都尉」のそれをそのまま横滑りさせて「漢安郡」にしたのだろう。
長官も横滑りしたため、逆に「扶風都尉」は廃止されたということではなかろうか。
ということはもしかしたら、「漢安都護」は「漢安郡」または「漢安太守」の誤りなのかもしれない。