『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その62

その61(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/01/20/000100)の続き。





十一年冬十月、遣周勃征代地。
春正月、淮陰侯韓信謀反、與陳豨為内應。欲夜詐詔諸宮徒奴、以襲呂后・太子、其舍人告之。呂后與蕭何謀、詐令人從上所來、言陳豨已死、群臣皆賀。遂執信斬之、夷三族。信方斬、歎曰、悔不用蒯通之言、為女子所執。上自邯鄲至洛陽、召蒯通、將烹之。通曰、臣聞狗各吠非其主。當彼之時、臣但知有齊王信、不知有陛下。且秦失其鹿、天下爭逐之、高才輕足者先得。當此之時、爭欲為陛下所為、顧力不能、可盡烹邪。乃赦之。
上使使者拜丞相蕭何為相國、益封五千戸、令卒五百人・一都尉、為相國衛。諸群臣皆賀、故秦東陵侯邵平獨揖曰、禍自此始矣。上暴露於外、而君守其内、非有矢石之難。而益封置衛者、以今淮陰侯新反於中、有疑君心。夫置衛者衛君、非所以寵君也。顧君讓封勿受、以家財給軍。何從之。上大悦。
立皇子恆為代王、都晉陽。
赦天下。
(『漢紀』高祖皇帝紀巻第四)

淮陰侯韓信呂后と蕭何によって殺される。韓信の才能を認めて劉邦に勧めたのは蕭何だった訳だが、蕭何は後始末もキッチリやってのけた、とも言えるだろう。


それにしても、今回も家臣から密告されていたそうだから、反乱を企む者としては少々脇が甘いようにも思う。


それと、反乱を企てたタイミングがここに載っている通りであれば、陳豨との連携が上手く行ってないのではなかろうか。陳豨の方があらかた片付いてからの蜂起(未遂)になってしまっているではないか。




蕭何の話は、よく考えると怖い部分がある。「護衛が単純に要人が危害を加えられる事から守るためだけにあるとは限らない」という事だ。「要人自身による暴発の発生を食い止める」という事もありうるのだ。




代王になった皇子劉恒、後の文帝。彼は劉邦が漢王になってからの子であり、この時はまだ子供である。