王位継承

太祖崩、嗣位為丞相・魏王。
【注】
袁宏漢紀載漢帝詔曰「魏太子丕、昔皇天授乃顯考以翼我皇家、遂攘除羣凶、拓定九州、弘功茂績、光於宇宙、朕用垂拱負扆二十有餘載。天不憖遺一老、永保余一人、早世潛神、哀悼傷切。丕奕世宣明、宜秉文武、紹熙前緒。今使使持節御史大夫華歆奉策詔授丕丞相印綬・魏王璽紱、領冀州牧。方今外有遺虜、遐夷未賓、旗鼓猶在邊境、干戈不得韜刃、斯乃播揚洪烈、立功垂名之秋也。豈得脩諒闇之禮、究曾・閔之志哉?其敬服朕命、抑弭憂懷、旁祗厥緒、時亮庶功、以稱朕意。於戲、可不勉與!」
(『三国志』巻二、文帝紀


曹操が死去すると、曹丕が丞相と魏王の地位を継いだ。



これは「三国志」をある程度知った人ならよくわかっていることだろう。




その曹操が死去したのは『三国志武帝紀などによると建安25年正月庚子。



そして、上記『三国志』文帝紀および注には出ていないが、『後漢紀』孝献帝紀によると、曹丕を丞相・魏王とする献帝の詔は同年正月壬寅に出された、とされている。




庚子と壬寅は中1日のはずだ。つまり曹操の死から2日後には曹丕の継承が決まった、ということらしい。




從征漢中、還為尚書。行前未到鄴、太祖崩洛陽、群臣拘常、以為太子即位、當須詔命。(陳)矯曰「王薨于外、天下惶懼。太子宜割哀即位、以繫遠近之望。且又愛子在側、彼此生變、則社稷危矣。」即具官備禮、一日皆辦。明旦、以王后令、策太子即位、大赦蕩然。
(『三国志』巻二十三、陳矯伝)

ところで、その時の事として、『三国志』陳矯伝にこんなことが書かれている。



曹操死去に際し、本当なら皇帝の命令を待って太子(曹丕)が魏王になるべきだが、このままでは何がどうなるかわからないから王の后(卞氏)の命令によってすぐに太子が魏王になるべきだ、と陳矯が主張し、その通りにしたというのである。




だが、曹操死去から献帝の詔まで2日だったのなら、そこまで心配する必要があったのか、なんて思わないでもない。





もちろん、「日にちの記録が誤っている」とか、「曹操の実際の死去と公式発表日が違うのでは」とかいった可能性も捨てきれない。




ともあれ、個人的にはちょっともやもや感がある。