後漢末の御史大夫

臣昭案、獻帝建安十三年、又罷司空、置御史大夫御史大夫郗慮。慮免、不得補。
(『続漢書』志第二十四、百官志一、司空、劉昭注)


『続漢書』注釈の劉昭は、後漢末の漢王朝に復活した御史大夫は郗慮が最初で最後の任命者であったと言っている。




(建安二十二年)六月、以軍師華歆為御史大夫
(『三国志』巻一、武帝紀)

(建安)二十二年夏六月、丞相軍師華歆為御史大夫
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)

だが、華歆は御史大夫になったという記録がある。






この矛盾はどういうことか。





よく考えてみると、この時代の「御史大夫」には「漢王朝御史大夫」と「魏国の御史大夫」の両方が存在しうる状態であるのだ。



という事は、実は劉昭の注は間違いなどではなく、郗慮が最後だというのは「漢王朝御史大夫」で、華歆がなったのは「魏国の御史大夫」であった、という事かもしれない。




太祖征孫權、表(華)歆為軍師。魏國既建、為御史大夫
(『三国志』巻十三、華歆伝)


そういう目で見ると、『三国志』華歆伝の記述は「魏国が出来た後」という前段を受けて「御史大夫になった」と書いており、「魏国の御史大夫になった」事を示しているようにも思える。