かの魏諷について、『後漢紀』では「丞相掾」としている。
(建安二十四年)九月、相國鍾繇坐西曹掾魏諷反免。
【注】
世語曰、諷字子京、沛人。有惑衆才、傾動鄴都、鍾繇由是辟焉。大軍未反、諷潛結徒黨、又與長樂衛尉陳禕謀襲鄴。未及期、禕懼、告之太子、誅諷、坐死者數十人。
(『三国志』巻一、武帝紀、建安二十四年)
確かに『三国志』でも魏諷は「西曹掾」とのみ書かれているので、丞相掾(つまり曹操の掾)という可能性は否定しきれない。
だが、罷免されているのが魏国の相国鍾繇であることや、「謀襲鄴」と直接の目標が魏国の都である鄴だったことが明らかなことからすると、魏諷はやはり魏国における西曹掾、つまりは魏国の相国鍾繇の西曹掾であって、曹操の丞相掾ではないのだろう。
ただ、こういう風に伝わっている資料もあった、ということなのだろう。