『漢書』王莽伝を読んでみよう:下その20

その19の続き。


三輔盜賊麻起、乃置捕盜都尉官、令執法謁者追撃長安中、建鳴鼓攻賊幡、而使者隨其後。
遣太師犧仲景尚・更始將軍護軍王黨將兵撃青・徐、國師和仲曹放助郭興撃句町。
轉天下穀幣詣西河・五原・朔方・漁陽、毎一郡以百萬數、欲以撃匈奴
秋、隕霜殺菽、關東大饑、蝗。
民犯鑄錢、伍人相坐、沒入為官奴婢。其男子檻車、兒女子歩、以鐵鎖琅當其頸、傳詣鍾官、以十萬數。到者易其夫婦、愁苦死者什六七。
孫喜・景尚・曹放等撃賊不能克、軍師放縱、百姓重困。
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)


三輔の群盗が乱れ起こったため、捕盗都尉の官を置き、執法謁者に長安中を追わせ、太鼓を叩き賊を攻めることを示す旗を建て、使者がその後ろに随行した。



太師犧仲の景尚、更始将軍護軍の王党を派遣し、兵を率いて青州・徐州を攻めさせ、国師和仲の曹放に郭興を助けて句町を攻撃させた。



天下の穀物や貨幣を西河・五原・朔方・漁陽郡に輸送させて匈奴を討とうとし、一郡ごとに百万にも至った。



秋、霜が降りて豆を枯らしたため、函谷関の東側は大いに飢えた。イナゴの害も起こった。



民が銭の盗鋳の罪を犯すと、五人組も連帯責任を負い、身分を失い官奴婢とされた。男子は護送車、女子や子供は徒歩で、鉄の鎖を首に掛けられて鍾官に連行された。
そこでは夫婦を引き離して別の者と結婚させ、憂い苦しんで死ぬ者が十分の六、七にも至った。



孫喜・景尚・曹放らが賊を討ったが勝てず、軍規も緩んでいて民は重ねて苦しんだ。



王莽、各地の反乱、盗賊に対処するの巻。



しかしその一方で匈奴討伐のためにまた民に恨まれそうな物資集積を行い、五人組で巻き添えになって官奴婢になる者は続出。



班固らが「そういう風に書いている」側面があるだろうが、亡国のテンプレをこれでもかと言わんばかりに踏襲していく。





郭興は益州討伐に派遣された大司馬護軍、孫喜は長江沿いの群盗討伐に派遣された太傅犧叔士。


曹放の派遣はその援軍なのだろう。


これは言い換えるとそれぞれの戦場で王莽の軍はずっと苦戦続きであったということになるだろう。