『漢書』王莽伝を読んでみよう:下その9

その8の続き。


初、匈奴右骨都侯須卜當、其妻王昭君女也、嘗内附。莽遣昭君兄子和親侯王歙誘呼當至塞下、脅將詣長安、強立以為須卜善于後安公。
始欲誘迎當、大司馬嚴尤諫曰「當在匈奴右部、兵不侵邊、單于動靜、輒語中國、此方面之大助也。于今迎當置長安槀街、一胡人耳、不如在匈奴有益。」莽不聽。
既得當、欲遣尤與廉丹撃匈奴、皆賜姓徴氏、號二徴將軍、當誅單于輿而立當代之。出車城西膻廐、未發。
尤素有智略、非莽攻伐西夷、數諫不從、著古名將樂毅・白起不用之意及言邊事凡三篇、奏以風諫莽。及當出廷議、尤固言匈奴可且以為後、先憂山東盜賊。
莽大怒、乃策尤曰「視事四年、蠻夷猾夏不能遏絶、寇賊姦宄不能殄滅、不畏天威、不用詔命、皃佷自臧、持必不移、懐執異心、非沮軍議。未忍致于理、其上大司馬武建伯印韍、歸故郡。」以降符伯董忠為大司馬。
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)

元々、匈奴の右骨都侯の須卜当は妻が王昭君の娘であり、以前中国に臣従していた。王莽は王昭君の兄の子の和親侯王歙を遣わして須卜当を長城のそばまで来るよう誘い出し、長安へ強制連行して「須卜善于・後安公」に立てようとした。



須卜当を誘い出そうとしたとき、大司馬の荘尤(厳尤)は王莽を諌めた。「須卜当は匈奴の右部にあって、兵は中国を侵略せず、単于の動静を中国に逐一伝えてくれており、その方面において大きく助けになっております。今長安の異民族街に住まわせたとしてもそれは一人の異民族でしかなく、匈奴に置いておくほどの利益はありません」王莽は聞き入れなかった。



須卜当を確保すると、荘尤と廉丹を派遣して匈奴を討たせようと考え、それぞれに「徴氏」の姓を下賜し、「二徴将軍」と呼び、単于輿を誅殺して須卜当を代わりに立てようとした。車城の西横厩から出陣し、まだ出発していないかった。



荘尤は元より知略があり、王莽が西南夷を攻めることを誤りと思いしばしば諫言したが聞き入れられず、古の名称楽毅・白起が用いられなかった意味についてと辺境の事について三篇の書を著し、上奏して王莽を明言せずに諌めた。須卜当が朝廷の会議に出てくると、荘尤は匈奴は後に回して山東の群盗を優先すべきと強く主張した。



王莽は激怒し、荘尤を策書により罷免した。「職務に就いて四年、異民族が中国を乱すことを止めることが出来ず、群盗を討ち滅ぼすことが出来ず、天の権威を恐れず、皇帝の詔を用いず、不服従な態度で自分が正しいと思い込んで考えを変えず、皇帝に逆らう心を抱き、軍議を妨害した。しかし罪に当てるには忍びないので、大司馬・武建伯の印綬を返上し、故郷の郡へ帰るよう命じる」
そして降符伯董忠を大司馬とした。




王莽と匈奴


烏珠留單于立二十一歳、建國五年死。匈奴用事大臣右骨都侯須卜當、即王昭君女伊墨居次云之壻也。云常欲與中國和親、又素與咸厚善、見咸前後為莽所拜、故遂越輿而立咸為烏累若鞮單于。
(『漢書』巻九十四下、匈奴伝下)

天鳳二年五月、莽復遣(王)歙與五威將王咸率伏黯・丁業等六人、使送右廚唯姑夕王、因奉歸前所斬侍子登及諸貴人從者喪、皆載以常車。至塞下、單于遣云・當子男大且渠奢等至塞迎。咸等至、多遺單于金珍、因諭説改其號、號匈奴曰「恭奴」、單于曰「善于」、賜印綬封骨都侯當為後安公、當子男奢為後安侯。單于貪莽金幣、故曲聽之、然寇盜如故。
(『漢書』巻九十四下、匈奴伝下)


右骨都侯須卜当というのは、ひとつ前の単于である単于咸と懇意であったために輿を飛び越えて先に単于に就けたのだという。つまりキングメーカーであり、匈奴内の実力者であったようだ。



そして、王莽は「匈奴」を「恭奴」、「単于」を「善于」と改称したという。本文中で「須卜善于」となっているのはこれを踏まえている。王莽的には当時の正式名称が「善于」なのだ。


而左右賢王・左右谷蠡最大國、左右骨都侯輔政。
(『漢書』巻九十四上、匈奴伝上)

どうやら元々骨都侯というのは単于にとっての宰相的な存在であるらしいので、須卜当も宰相として単于を動かしてきたというところなのだろう。



確かに、そのような人物は長安に置いておくよりも匈奴内に置いておいた方がよさそうに思えるが、もしかすると王莽は「これからガチで匈奴潰しちゃうから、善良な須卜当も巻き添えになるかもしれないので助けておいてあげよう。戦後処理にも必要だし」みたいな気持ちだったのかもしれない。

だとしたら、実現できないということを除けば高度に戦略的な措置だったことになる。