『漢書』王莽伝を読んでみよう:中その46

その45の続き。


平蠻將軍馮茂撃句町、士卒疾疫、死者什六七、賦斂民財什取五、益州虚耗而不克、徴還下獄死。
更遣寧始將軍廉丹與庸部牧史熊撃句町、頗斬首、有勝。莽徴丹・熊、丹・熊願益調度、必克乃還。復大賦斂、就都大尹馮英不肯給、上言「自越巂遂久仇牛・同亭邪豆之屬反畔以來、積且十年、郡縣距撃不已。續用馮茂、苟施一切之政。僰道以南、山險高深、茂多敺衆遠居、費以億計、吏士離毒氣死者什七。今丹・熊懼於自詭期會、調發諸郡兵穀、復訾民取其十四、空破梁州、功終不遂。宜罷兵屯田、明設購賞。」
莽怒、免英官。後頗覺寤曰「英亦未可厚非。」復以英為長沙連率。
(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)

平蛮将軍馮茂が句町を攻撃したが士卒に疫病が流行って十分の六が死に、民から財産の半分を徴発したため、益州は疲弊の極みに達したが勝つことができなかった。そのため馮茂は召喚を受けて獄死した。



改めて寧始将軍廉丹と庸部牧史熊に句町を討たせたところ、勝利して首級をいくらか挙げた。王莽は廉丹・史熊を召喚し、廉丹・史熊は軍を増強すれば必ずや勝利するので、それから戻ると願い出た。そこでまた大いに徴発しようとしたが、就都大尹馮英は徴発に応じようとせずに上奏した。
「越巂の遂久県の仇牛、同亭の邪豆などが反乱して以来十年になろうとしていますが、郡県のそれらへの攻撃は止むことがありません。ついで馮茂を用い、政治を仮に任せました。僰道県以南は険しい山々でありますが、馮茂は人々を駆り立てて遠くへ住まわせようとし、億単位の費用がかかり、官吏や士卒で毒気を受けて死ぬ者が十分の七に至りました。今廉丹・史熊は約束通りに集まることができなかったと責められることを恐れて諸郡の兵や食料を徴発し、民の財産の十分の四を召し上げようとしておりますが、梁州を破ったとしても虚しい勝利であり、功績は成し遂げられないでしょう。軍を止めて屯田させ、反乱者たちに賞金を懸けるべきです。」



王莽は怒って馮英を罷免したが、その後、「馮英はそれほどの非はなかった」と悟り、また馮英を長沙連率とした。



「同亭」はもとの夜郎国のあったあたりらしい。



つまりこのあたりは三国志の時代では「南中」などと呼ばれていたあたりだったりする。




どうやらこの時の句町討伐が益州方面に深刻なダメージを与えたようで(新軍が与えた)、もしかすると蜀独立の気運にも影響したりしなかったりしたかもしれない。