『漢書』王莽伝を読んでみよう:中その47

その46の続き。


翟義黨王孫慶捕得、莽使太醫・尚方與巧屠共刳剝之、量度五藏、以竹筳導其脈、知所終始、云可以治病。
是歳、遣大使五威將王駿・西域都護李崇將戊己校尉出西域、諸國皆郊迎貢獻焉。
諸國前殺都護但欽、駿欲襲之、命佐帥何封・戊己校尉郭欽別將。焉耆詐降、伏兵撃駿等、皆死。欽・封後到、襲撃老弱、從車師還入塞。
莽拜欽為填外將軍、封劋胡子、何封為集胡男。西域自此絶。
(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)


翟義の一党の王孫慶を逮捕し、王莽は太医・尚方と優れた解体業者に解剖させ、内臓を計量し、竹の管を血管に入れて血管の通り方を確認させ、医学が進歩すると言った。



この年、大使の五威将王駿と西域都護李崇を遣わし、戊己校尉を率いて西域へ出た。諸国は郊外まで出迎えて貢物を献上した。
諸国は以前に西域都護但欽を殺していたので、王駿はそれら諸国を襲撃しようと考え、佐帥何封・戊己校尉郭欽に別動隊を率いさせた。焉耆が降伏と偽って伏兵を置いて王駿らを襲撃し、王駿らはみな死んだ。郭欽・何封は後から到着し、残っていた老人や幼少の者を攻撃し、車師国経由で西域より中国へ戻った。
王莽は郭欽を填外将軍として劋胡子に封建し、何封を集胡男に封建した。
西域との交通はこれより途絶えた。




有名な王莽の人体解剖。ここからは生きているうちから解剖したのか、死んでから解剖したのかははっきりしない。



及東郡王孫慶素有勇略、以明兵法、徴在京師、(翟)義乃詐移書以重罪傳逮慶。
(『漢書』巻八十四、翟義伝)

なお王孫慶は翟義が反乱に際してわざわざ長安から呼び寄せたという戦略家だったそうだ。いわゆる軍師的な存在だったのかもしれない。


王莽が人体解剖の対象として王孫慶を選んだ理由としては、反乱の中心人物なので特に過酷な刑罰を与えて見せしめにしよう、というものがあったのではなかろうか。



天鳳三年、乃遣五威將王駿・西域都護李崇將戊己校尉出西域、諸國皆郊迎、送兵穀。
焉耆詐降而聚兵自備。駿等將莎車・龜茲兵七千餘人、分為數部入焉耆、焉耆伏兵要遮駿。及姑墨・尉犂・危須國兵為反間、還共襲撃駿等、皆殺之。
唯戊己校尉郭欽別將兵、後至焉耆。焉耆兵未還、欽撃殺其老弱、引兵還。莽封欽為剼胡子。
李崇收餘士、還保龜茲。數年莽死、崇遂沒、西域因絶。
(『漢書』巻九十六下、西域伝下、車師後国)


漢書』西域伝によると、焉耆の襲撃では王駿は死んだが、西域都護李崇は数年は生き残っていたようで、西域との連絡が途絶えるのも天鳳三年の時点ではなく、その数年後のことであったようだ。



なお王駿も郭欽も翟義の乱などでも討伐軍に名を連ねた人物であり、たぶん割と早い段階からの王莽シンパ、または王莽子飼いだったのだろうと思う。


それが西域で敗死し、盛り返すことも出来ないで終わるというあたり、王莽政権の限界、というか王莽政権の最後を先取りしているかのような事件と言えるかもしれない。





というわけで、「中」もようやく終わり。次は「下」へ続く。