『漢書』王莽伝を読んでみよう:中その41

その40の続き。


莽意以為制定則天下自平、故鋭思於地里、制禮作樂、講合六經之説。公卿旦入暮出、議論連年不決、不暇省獄訟冤結民之急務。
縣宰缺者、數年守兼、一切貪殘日甚。中郎將・繡衣執法在郡國者、並乗權勢、傳相舉奏。
又十一公士分布勸農桑、班時令、案諸章、冠蓋相望、交錯道路、召會吏民、逮捕證左、郡縣賦斂、遞相賕賂、白鄢紛然、守闕告訴者多。
莽自見前顓權以得漢政、故務自㩜衆事、有司受成苟免。諸寶物名・帑藏・錢穀官、皆宦者領之。吏民上封事書、宦官左右開發、尚書不得知。其畏備臣下如此。
又好變改制度、政令煩多、當奉行者、輒質問乃以從事、前後相乗、憒眊不渫。莽常御燈火至明、猶不能勝。
尚書因是為姦寢事、上書待報者連年不得去、拘繫郡縣者逢赦而後出、衛卒不交代三歳矣。
穀常貴、邊兵二十餘萬人仰衣食、縣官愁苦。五原・代郡尤被其毒、起為盜賊、數千人為輩、轉入旁郡。莽遣將軍孔仁將兵與郡縣合撃、歳餘乃定、邊郡亦略將盡。
邯鄲以北大雨霧、水出、深者數丈、流殺數千人。
立國將軍孫建死、司命趙閎為立國將軍。寧始將軍戴參歸故官、南城將軍廉丹為寧始將軍。
(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)

王莽は制度を定めれば天下は自然と治まると考え、地理や礼楽を制定、六経の説についての統一会議に専心した。大臣たちは残業続きで、連年議論を続けたが決まらず、冤罪の救済や民の急務を顧みる時間が無かった。
県の長官が欠けると数年間代行や兼任が行われ、汚職や残忍な行いが日に日に悪化した。中郎将や繍衣執法の中で郡・国にいる者は権勢に乗じてお互いに弾劾し合った。
また十一公の士は分担して農業を勧奨し、時事の命令を下し、諸々の文書を処理し、お互いの冠や馬車の天蓋がお互いに見え、道路が混雑し、官吏や民を召し出して証人を逮捕し、郡県は搾取し、お互いに賄賂を贈り合い、清濁が混然となり、宮殿の門に至って告訴する者が多くなった。



王莽は自らが権限を独占して漢の政権を握ったことを見て、数多の行政を統べることに努め、担当官署はことなかれ主義に陥った。諸々の財宝、倉庫、金銭、穀物の官は皆宦官が管轄した。官吏や民の密奏は宦官や側近が中身を見て、尚書は関知できなかった。王莽が臣下を警戒し備えるのはこのようであった。



王莽はまた制度の改変を好み、命令は多く煩雑で、仕事に携わる者も、まず質問してそれから従事するようになった。こういったことが積み重なって政治は不明瞭で一貫しなくなった。王莽は夜に明かりを灯して朝まで仕事をしたが追いつかなかった。
尚書はこれによって悪事を働いて文書を握り潰し、上奏して返事を待つ者は何年も返事が無いため帰ることも出来ず、郡県に拘留されている者は大赦が出るまで出ることが出来ず、衛士も交替できないまま三年が経過した。
穀物の価格は常に高騰し、辺境の兵二十万人に衣食を給するため地方官は苦しんだ。五原郡、代郡が特にその害を蒙り、そのために群盗が発生し、数千人が集まって近隣の郡へ攻め入った。
王莽は捕盜将軍孔仁を派遣し、兵を率いて郡県の兵と共に攻撃し一年余りで平定したが、辺境の郡はあらかた略奪され尽さんとしていた。



邯鄲以北で大雨と霧が起こり、大水も発生し、深いところでは水深数丈になり、数千人が水死した。



立国将軍孫建が死去し、司命趙閎が立国将軍となった。寧始将軍戴参は元の官(講易祭酒)に戻り、南城将軍廉丹が寧始将軍となった。



王莽の素晴らしい政権運営の手腕。




ただ、宦官による一種の監視政治、宦官が皇帝の直接の手足となるといったことは、前漢後漢でも似たような事が見られた現象である。たとえば、密奏を宦官にのみ扱わせたと言うのは、前漢の宣帝が行った事だ。


つまり、王莽の専権は漢の皇帝の手法と共通しているので、王莽だけが何かおかしなことをしていると言うほどではないのではないか、ということだ。