『漢書』王莽伝を読んでみよう:中その40

その39の続き。

二年二月、置酒王路堂、公卿大夫皆佐酒。大赦天下。
是時、日中見星。
大司馬苗訢左遷司命、以延徳侯陳茂為大司馬。
訛言黄龍墮死黄山宮中、百姓犇走往觀者有萬數。莽惡之、捕繫問語所從起、不能得。
單于咸既和親、求其子登屍、莽欲遣使送致、恐咸怨恨害使者、乃收前言當誅侍子者故將軍陳欽、以他辠繫獄。欽曰「是欲以我為説於匈奴也。」遂自殺。
莽選儒生能顓對者濟南王咸為大使、五威將琅邪伏黯等為帥、使送登屍。敕令掘單于知墓、棘鞭其屍。又令匈奴卻塞於漠北、責單于馬萬匹、牛三萬頭、羊十萬頭、及稍所略邊民生口在者皆還之。莽好為大言如此。
咸到單于庭、陳莽威徳、責單于背畔之辠、應敵從膻、單于不能詘、遂致命而還之。入塞、咸病死、封其子為伯、伏黯等皆為子。
(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)

  • 天鳳二年(紀元15年)

天鳳二年、王路堂で宴会を開き、大臣や朝臣たちがみな饗応した。



天下に大赦令を出した。



この時、日中に星が見えた。



大司馬苗訢を司命に左遷し、延徳侯陳茂を大司馬とした。



黄竜黄山宮に墜落したという流言が広まり、見物に走る者が万単位でいた。王莽はこれに不快感を覚え、容疑者を捕えて流言の火元を取り調べしたが発見できなかった。



匈奴単于咸は和親し、子の登の遺体を求めた。王莽は使者を遣わして遺体を送ろうとしたが、単于咸が使者を恨み危害を加えることを恐れ、登を殺すべきと進言した元将軍陳欽を捕え、他の罪で獄に入れた。陳欽は「これは私によって匈奴を喜ばせようとしているのだ」と言い、自殺した。
王莽は儒者の中でも弁舌に長けた者である済南の王咸を大使とし、五威将伏黯らを帥として登の屍を送り届けさせた。勅命により単于知の墓を暴いて遺体に鞭打たせた。また匈奴に砂漠の北へ戻るよう命じ、単于に馬一万匹、牛三万頭、羊十万頭を要求し、略奪した民で現に匈奴に居る者の返還を求めた。王莽が大言壮語を好むことはこのようであった。
王咸は単于の朝廷へ着くと王莽の威厳と徳を述べ、単于の新に背き反覆常無き様を責めた。単于は彼を屈することが出来ず、遂に王莽の命を伝えて帰還した。
国境の内側に入ってから王咸は病死した。その子を伯爵に封じ、伏黯らは子爵に封じた。




王莽と匈奴、また和親。匈奴が反抗と服従を繰り返しているとも言えるし、匈奴が王莽の定見の無い対匈奴政策に翻弄されているとも言えないこともない。

どっちにしても、王莽の時代に匈奴が中国に対して反抗的になったことは確実である。




槐里。周曰犬丘、懿王都之。秦更名廢丘。高祖三年更名。有黄山宮、孝惠二年起。莽曰槐治。
(『漢書』巻二十八上、地理志上、右扶風)


イエロードラゴンが墜落したという「黄山宮」は右扶風槐里県にあったようだ。つまり長安(常安)の近くであり、黄色をマイカラーとしている王莽にしてみれば、都のそばで自分の象徴が失墜したという、とても不吉な話だったのである。