『漢書』王莽伝を読んでみよう:下その25

その24の続き。


唯翼平連率田況素果敢、發民年十八以上四萬餘人、授以庫兵,與刻石為約。赤糜聞之、不敢入界。
況自劾奏、莽讓況「未賜虎符而擅發兵、此弄兵也、厥辠乏興。以況自詭必禽滅賊、故且勿治。」
後況自請出界撃賊、所嚮皆破。莽以璽書令況領青・徐二州牧事。
況上言「盜賊始發、其原甚微、非部吏・伍人所能禽也。咎在長吏不為意、縣欺其郡、郡欺朝廷、實百言十、實千言百。朝廷忽略、不輒督責、遂至延曼連州、乃遣將率、多發使者、傳相監趣。郡縣力事上官、應塞詰對、共酒食、具資用、以救斷斬、不給復憂盜賊治官事。將率又不能躬率吏士、戰則為賊所破、吏氣寖傷、徒費百姓。前幸蒙赦令、賊欲解散、或反遮撃、恐入山谷轉相告語、故郡縣降賊、皆更驚駭、恐見詐滅、因饑饉易動、旬日之間更十餘萬人、此盜賊所以多之故也。今雒陽以東、米石二千。竊見詔書、欲遣太師・更始將軍、二人爪牙重臣、多從人衆、道上空竭、少則亡以威視遠方。宜急選牧・尹以下、明其賞罰、收合離郷。小國無城郭者、徙其老弱置大城中、積藏穀食、并力固守。賊來攻城、剛不能下、所過無食、勢不得羣聚。如此、招之必降、撃之則滅。今空復多出將率、郡縣苦之、反甚於賊。宜盡徴還乗傳諸使者、以休息郡縣。委任臣況以二州盜賊、必平定之。」
莽畏惡況、陰為發代、遣使者賜況璽書。使者至、見況、因令代監其兵。況隨使者西、到、拜為師尉大夫。況去、齊地遂敗。
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)

ただ、翼平連率の田況だけはもともと果敢な性格で、十八歳以上の民を四万人以上徴発して倉庫の武器を支給し、石に刻んで盟約を結んだ。赤眉もそれを聞くと彼の支配圏には侵入しようとしなかった。



田況は自らを弾劾し、王莽は田況を責めた。「武器の使用を許す虎符を受けていないのに勝手に武器を使った、これは兵を勝手に使ったことである。その罪は軍備を乏しくしたことになる。ただ田況は自ら群盗を滅ぼすと言っているので、当面はその罪を問わない」
その後、田況は自ら出撃して境界を出て群盗を責めることを申し出、向かう所すべて撃破した。王莽は勅命によって田況に青・徐二州牧の仕事を執り行わせた。



田況は上奏した。「群盗が生まれる最初は大変小さいところから始まっており、担当の官吏や五人組の隣人が捕まえることができるようなものではありません。その罪は長官がその事を意に介さず、県は郡を欺き、郡は朝廷を欺き、実際は百のところを十と言い、実際は千のところを百と言うところにあります。
朝廷も方略をおろそかにし、すぐに監督せず、州をまたいで蔓延するようになってからやっと将軍たちを派遣し、使者を数多く送り込み、互いに監督させています。郡県はその上官に対応することに力を注ぎ、詰問に回答し、手厚く接待し、斬首されることを回避しようとするばかりで、群盗をどうにかしようとはしないのです。
将軍たちもまた自ら兵や官吏を指揮することができず、戦えば群盗に破られ、官吏の士気も下がり、民をいたずらに疲弊させるばかりなのです。
先に幸いにも恩赦を受け、群盗たちも解散しようとしましたが、ある者はかえって攻撃を受け、山や谷に隠れても告発されるのではないかと恐れ、そのため郡県に降伏した群盗も騙されて滅ぼされるのではないかと疑って驚き恐れ、飢饉によって容易に動揺し、十日もすると十万の大軍が集まるようになりました。これが群盗が多くなる理由なのです。
今、洛陽以東では穀物一石が二千銭になっています。おそれながら詔書によると太師・更始将軍を派遣しようとしておりますが、このお二方は陛下の爪や牙となるべき重臣であるので多くの兵を従えることでしょうし、兵数が少なければ遠方に威厳を示すことができないでしょう。
急ぎ牧・尹以下の長官を選抜し、賞罰を明らかにし、支配から離れた集落を取り戻すべきです。城郭を持たない小国は、老人や年少者を大きな城に避難させ、食料を備蓄し、力を合わせて守らせるのです。群盗が城に攻めてきても下すことができず、途上にも略奪する食料は無く、勢いとして群れ集まることができないでしょう。
早馬の使者たちを帰還させて郡県を休息させるべきです。そして私に青・徐二州の群盗の処置を任せていただければ、必ずや平定してみせましょう」



王莽は田況を恐れ憎み、密かに後任の者を送ると共に田況に勅書を下賜した。勅書を渡す使者が到着して田況に面会すると、そこで同時に代わりの者が兵の指揮権を掌握した。田況は使者と共に西へ向かい、長安に到着すると師尉大夫を拝命した。



田況が去った後、結局斉の地は敗れることとなった。



前段では賊が制御できなくなったと述べていたが、その例外が田況だったという。彼は以前王莽に税制の問題を直言して褒賞された人物である



「翼平」は『漢書』地理志上によると青州北海郡の寿光県を改称した地名であるらしい。田況はその長官(連率(連帥)は太守に相当する)ということだから、おそらく寿光県近辺を一つの郡としていたのだろう。



彼もまた前回の話と同様に実態を述べて王莽に忌避されたということのようだ。




後數歳、琅邪人樊崇起兵於莒、衆百餘人、轉入太山、自號三老。
時青・徐大飢、寇賊蜂起、衆盜以崇勇猛、皆附之、一歳輭至萬餘人。崇同郡人逄安、東海人徐宣・謝祿・楊音、各起兵、合數萬人、復引從崇。共還攻莒、不能下、轉掠至姑幕、因撃王莽探湯侯田況、大破之、殺萬餘人、遂北入青州、所過虜掠。還至太山、留屯南城。
(『後漢書』列伝第一、劉盆子伝)

なお、赤眉は徐・青州方面で「探湯侯田況」と戦い勝利したと『後漢書』劉盆子伝に書かれている。


これが翼平連率田況と同一人物かどうかははっきりしないが、同じ方面であることを考えると同一人物でも不思議は無い。



本文と『後漢書』劉盆子伝は齟齬するようにも感じるが、あるいはまず赤眉と戦って大きな被害を蒙り、それから四万人を緊急かつ独断で徴発して赤眉のこれ以上の侵攻を防いだ、といった順番の可能性もあるか?