『漢書』王莽伝を読んでみよう:中その39

その38の続き。


令天下小學、戊子代甲子為六旬首。冠以戊子為元日、昏以戊寅之旬為忌日。百姓多不從者。
匈奴單于知死、弟咸立為單于、求和親。莽遣使者厚賂之、詐許還其侍子登、因購求陳良・終帯等。單于即執良等付使者、檻車詣長安。莽燔燒良等於城北、令吏民會觀之。
縁邊大飢、人相食。
諫大夫如普行邊兵、還言「軍士久屯塞苦、邊郡無以相贍。今單于新和、宜因是罷兵。」
校尉韓威進曰「以新室之威而吞胡虜、無異口中蚤蝨。臣願得勇敢之士五千人、不齎斗糧、飢食虜肉、渴飲其血、可以膻行。」莽壮其言、以威為將軍。然采普言、徴還諸將在邊者。免陳欽等十八人、又罷四關填都尉諸屯兵。
匈奴使還、單于知侍子登前誅死、發兵寇邊、莽復發軍屯。
於是邊民流入内郡、為人奴婢、乃禁吏民敢挾邊民者棄市。
益州蠻夷殺大尹程隆、三邊盡反。遣平蠻將軍馮茂將兵撃之。
寧始將軍侯輔免、講易祭酒戴參為寧始將軍。
(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)

天下の小学校に命じて戊子を甲子に代えて筆頭の日とし、成人式は戊子の日を良い日とし、結婚式は戊寅の十日前後を忌み日と決めたが、従わない者が多かった。



匈奴単于知が死去し、弟の咸が単于となり、新に和親を求めてきた。王莽は使者を送って手厚く贈り物をし、新の人質となっていた子の登を返すと偽り、戊己校尉を殺した陳良・終帯らに賞金を賭けて引き渡しを求めた。単于はすぐに陳良らを捕えて使者に引き渡し、陳良らは護送車で長安まで送られた。王莽は陳良らを城の北側で焼き殺し、官吏や民に見物させた。



辺境で大規模な飢餓が発生し、人が人を喰うほどであった。
諫大夫の如普は辺境の兵を見回り、帰ってきてから上奏した。「軍の兵士は長らく辺境の城塞への駐屯に苦しんでおり、辺境も不足を補うに足りません。今、単于と新たに和親したので、駐屯を止めるべきです」
それに対して校尉韓威が前へ進み出て言った。「新王朝が匈奴をひと呑みに平らげるのは、口の中にノミやシラミが入ったようなたやすいことです。願わくば勇敢な兵士五千人をお与えください。食料は持たず、腹が減れば敵の肉を食べ、喉が渇けば敵の血を飲み、敵地を横断してみせましょう」
王莽はこの韓威の言葉を勇壮であると思い、彼を将軍とした。その一方で如普の発言も採用し、辺境にいた諸将を呼び戻した。陳欽ら十八人を罷免し、四関填都尉の駐屯兵を撤廃した。



匈奴の使者が戻り、単于は人質になっていた登が既に死んでいることを知ったので、軍を起こして辺境を攻めた。王莽もまた軍を起こして駐屯させた。



こうして辺境の民は流民として内郡へ向かい、人の奴婢となった。そこで官吏や民に辺境の民を奴婢として所有することを禁じ、違反者は死刑とした。



益州郡の異民族が反乱して益州大尹程隆を殺し、かくして三方の辺境がみな反乱した。平蛮将軍馮茂を遣わし、兵を率いて反乱者を討たせた。



寧始将軍侯輔が罷免され、講易祭酒戴参が寧始将軍となった。



王莽、匈奴を騙したがすぐバレるの巻。



蛮族だから騙してもノーカン、みたいな心境だったんだろうか。



王莽が新たな単于の咸の子である登を殺したことは以前既に出ている。



陳良らが反乱を起こして匈奴に逃げたことも以前既に出ている。




三邊蠻夷愁擾盡反、復殺益州大尹程隆。莽遣平蠻將軍馮茂發巴・蜀・犍為吏士、賦斂取足於民、以撃 益州。出入三年、疾疫死者什七、巴・蜀騷動。莽徴茂還、誅之。
(『漢書』巻九十五、西南夷伝)


なお益州の反乱討伐については、派遣された馮茂が多大な被害を出し、蜀方面を動揺させたのだという。