『漢書』王莽伝を読んでみよう:中その6

その5の続き。


又曰「帝王之道、相因而通。盛徳之祚、百世享祀。予惟黄帝・帝少昊・帝顓頊・帝嚳・帝堯・帝舜・帝夏禹・皋陶・伊尹咸有聖徳、假于皇天、功烈巍巍、光施于遠。予甚嘉之、營求其後、將祚厥祀。」
惟王氏、虞帝之後也、出自帝嚳。劉氏、堯之後也、出自顓頊。於是封姚恂為初睦侯、奉黄帝後。梁護為脩遠伯、奉少昊後。皇孫功隆公千、奉帝嚳後。劉歆為祁烈伯、奉顓頊後。國師劉歆子疊為伊休侯、奉堯後。媯昌為始睦侯、奉虞帝後。山遵為襃謀子、奉皋陶後。伊玄為襃衡子、奉伊尹後。
漢後定安公劉嬰、位為賓。周後衛公姫黨、更封為章平公、亦為賓。殷後宋公孔弘、運轉次移、更封為章昭侯、位為恪。夏後遼西姒豐、封為章功侯、亦為恪。四代古宗、宗祀于明堂、以配皇始祖考虞帝。周公後襃魯子姫就、宣尼公後襃成子孔鈞、已前定焉。
(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)

また言った。「帝王の正しい道というのはお互いに通じている。盛んな徳の祭祀は百代受けることになる。予が思うに、黄帝・帝少昊・帝顓頊・帝嚳・帝堯・帝舜・帝夏禹・皋陶・伊尹らは、みな聖なる徳の持ち主で、天から至り、大きな功績が明らかで、遠くにまで輝いている。予はこれを大変喜ばしく思うので、その後裔を探し求めてその祭祀に幸いをもたらそう。」



王氏は虞舜の後裔で帝嚳より出ており、劉氏は堯の後裔で顓頊より出ていると考えた。そこで姚恂を初睦侯に封じて黄帝の祭祀を奉じさせた。梁護を修遠伯に封じて少昊の祭祀を奉じさせた。王莽の孫の功隆公王千に帝嚳の祭祀を奉じさせた。劉歆を祁烈伯に封じて顓頊の祭祀を奉じさせた。劉歆の子の劉疊を伊休侯に封じて堯の祭祀を奉じさせた。媯昌を始睦侯に封じて虞舜の祭祀を奉じさせた。山遵を襃謀子に封じて皋陶の祭祀を奉じさせた。伊玄を襃衡子に封じて伊尹の祭祀を封じさせた。
漢帝の末裔の定安公劉嬰(孺子嬰)は「賓」の位とした。周王の末裔の衛公姫党は改めて章平公に封じ、「賓」の位とした。殷王の末裔の宋公孔弘は、天命の移り変わりによって改めて章昭侯に封じ、「恪」の位とした。夏王の末裔の遼西の人姒豊を章功侯に封じ、「恪」の位とした。この四代の宗家は明堂で祭祀を受け、王莽の始祖である虞舜と合祀された。周公旦の末裔の襃魯子姫就、宣尼公すなわち孔子こと孔丘先生の末裔襃成子孔鈞については先に既に定められている。


王莽、五帝以来の天子の末裔を全て保護しようとするの巻。


ところどころに自分の子孫や腹心が混ざっているのはご愛嬌。




ちなみに「殷王の末裔の宋公孔弘」というのは、実は孔丘先生の子孫である儒者たちのアレコレによって、正統なる殷王の末裔でもなければ周によって封建された宋の正統な末裔でもなく、その分家の分家みたいな存在であったはずの孔丘先生の子孫こそが正統ということになった。





また「周公旦の末裔の襃魯子姫就」というのは、平帝の時に「襃魯侯」となった「姫相如」のことだろう。「姫就」というのは二字名を避けて改名した結果ではなかろうか。


同様に、「襃成子孔鈞」も平帝の時に封じられた「襃成侯孔均」と同一人物だろう。



周公旦と孔丘先生の子孫は、流石に代々の天子たちの子孫よりは下の子爵、ということかもしれない。