匡衡理論

昨日(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/06/17/000100)の続き。


初、武帝時、始封周後姫嘉為周子南君、至元帝時、尊周子南君為周承休侯、位次諸侯王。
使諸大夫博士求殷後、分散為十餘姓、郡國往往得其大家、推求子孫,絶不能紀。
時匡衡議、以為「王者存二王後、所以尊其先王而通三統也。其犯誅絶之罪者絶、而更封他親為始封君、上承其王者之始祖。春秋之義、諸侯不能守其社稷者絶。今宋國已不守其統而失國矣、則宜更立殷後為始封君、而上承湯統、非當繼宋之絶侯也、宜明得殷後而已。今之故宋、推求其嫡、久遠不可得。雖得其嫡、嫡之先已絶、不當得立。禮記孔子曰『丘、殷人也。』先師所共傳、宜以孔子世為湯後。」上以其語不經、遂見寢。
至成帝時、梅福復言宜封孔子後以奉湯祀。
綏和元年、立二王後、推迹古文、以左氏・穀梁・世本・禮記相明、遂下詔封孔子世為殷紹嘉公。語在成紀。
(『漢書』巻六十七、梅福伝)

梅福の建言の続き。



周王の末裔は武帝の時に周子南君が封建され、元帝の時には周承休侯に格上げされた。



しかし殷王の子孫は探していたが中々適任が見つからなかったという。




匡衡(元帝の時に丞相になった儒者)はこう言っていたという。梅福より前である。



王者は前二代の王の末裔を存続させるものである。しかし罪があって滅ぼされた者はそのまま断絶させ、他の者を立てるものだ。『春秋』でも社稷を守れない諸侯は断絶されるべきとしている。


だから周の時に殷王の血筋として封建された宋はそのまま断絶させ、殷王の末裔を封建するなら他の家から選ぶべきだ。



礼記』で孔丘先生は「私は殷人である」と言っている。孔丘先生の子孫を殷の湯王の子孫として封建すべきだ。




この匡衡の建言は取り上げられなかったが、梅副の後、最終的には成帝によって認められることになり、孔丘先生の子孫が殷王の子孫として「殷紹嘉公」に封建されたのだった。





匡衡や梅福によれば、「殷王の末裔の宋は滅んだ家系だから不適だ。それに対して孔丘先生も殷人だし、聖人の家系の方が宗家になるものなのだから、殷王の末裔の宗家として封建されるべきは滅んだ無資格者宋の末裔ではなく、聖人孔丘先生の子孫であるべきなのだ」ということになるらしい。




何というか、本来は殷王の子孫の宗家であるはずの宋の血筋の正統性を否定し、孔丘先生をサラッと聖人(五帝とかのレベルの存在)扱いして宗家の地位に収めるという、一種の簒奪が行われたのではないか、という感じがする。


色々と言われている割に、本当に孔丘先生が殷王の末裔なのかという点は何も無く事実認定されているのも気になる。「殷人」=「殷王の末裔」ということでいいんだろうか・・・?





と、そんなこんなで孔丘先生は殷の湯王の子孫の宗家という地位になるという下克上を果たしました、という話。持つべきものは熱心な信徒である。