『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その35

その34の続き。


於是羣臣奏言「太后聖徳昭然、深見天意、詔令安漢公居攝。臣聞周成王幼少、周道未成、成王不能共事天地、修文武之烈。周公權而居攝、則周道成、王室安。不居攝、則恐周隊失天命。書曰『我嗣事子孫、大不克共上下、遏失前人光、在家不知命不易。天應棐褜、乃亡隊命。』説曰、周公服天子之冕、南面而朝羣臣、發號施令、常稱王命。召公賢人、不知聖人之意、故不説也。禮明堂記曰『周公朝諸侯於明堂、天子負斧依南面而立。』謂『周公踐天子位、六年朝諸侯、制禮作樂、而天下大服』也。召公不説。時武王崩、縗麤未除。由是言之、周公始攝則居天子之位、非乃六年而踐阼也。書逸嘉禾篇曰『周公奉鬯立于阼階、延登、贊曰「假王莅政、勤和天下。」』此周公攝政、贊者所稱。成王加元服、周公則致政。書曰『朕復子明辟』、周公常稱王命、專行不報、故言我復子明君也。臣請安漢公居攝踐祚、服天子韍冕、背斧依于戶牖之間、南面朝羣臣、聽政事。車服出入警蹕、民臣稱臣妾、皆如天子之制。郊祀天地、宗祀明堂、共祀宗廟、享祭羣神、贊曰『假皇帝』、民臣謂之『攝皇帝』、自稱曰『予』。平決朝事、常以皇帝之詔稱『制』、以奉順皇天之心、輔翼漢室、保安孝平皇帝之幼嗣、遂寄託之義、隆治平之化。其朝見太皇太后・帝皇后、皆復臣節。自施政教於其宮家國采、如諸侯禮儀故事。臣昧死請。」
太后詔曰「可。」
明年、改元曰居攝。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)


そこで群臣は上奏した。
太皇太后は明らかなる聖徳で深く天の意思を見て、安漢公に皇帝の代行となるよう詔を出しました。
私どもが聞いたところでは、周の成王は幼少の際、周王朝の正しい道もまだ完成しておらず、成王は天地を祭ることも文武に輝かしい実績を修めることもできませんでした。周公旦が仮に摂政として代行したことで周王朝の道は完成し、王室は安定したのです。代行しないでいたら、周王朝の権威は失墜して天命を失っていたことでしょう。
書経』に「我が後継者は天地を祭ることができず、先人たちの輝かしい道を失い、天命を受けることが簡単なことではないのだと知らないでいるのではないか。天は誠実な者だけを助ける、それだけが天命を失わない方法である」と言い、その説においては周公は天子の服を着て群臣に対して南面して朝廷に臨み、命令も全て王命と称し、賢人召公奭といえども聖人の意図を理解しなかったので、それを喜ばなかった、と言われております。
礼記』明堂位には「周公旦は朝廷において諸侯に明堂の地位に立ち、天子は斧の模様の屏風を背に南を向いて立つ」と言い、「周公旦は天子の地位に就き、六年間朝廷で諸侯と対面し、礼や音楽を定め、天下はみな大いに敬服した」と言います。召公が喜ばなかったという時、周の武王は亡くなって喪が明ける前であり、そこから言うと、周公は摂政となってすぐに天子の地位に就いており、六年経ってから天子の地位に就いたわけではないのです。
書経』の散逸した嘉禾篇に「周公旦は香酒を持って天子の階段を上り、「仮の王が国政に臨み、天下を調和させることに努める」と称えられた」とあります。周公旦の摂政は、祭祀の際に称えられる事だったのです。成王が元服すると、周公旦は国政を返上しました。
書経』に「朕は子を明君に復帰させる」と言っています。周公旦は常に王の命令と称し、専断して報告しなかったので、「朕は子を明君に復帰させる」と言ったのです。
私どもは、安漢公が天子の代行となり、天子の服装を着て、朝廷において戸の間で斧の模様の屏風を背にして群臣たちに南向きに対面して政治を行うことを請い願います。馬車や服装、出入りの際の先払い、臣民が安漢公に対して「臣」「妾」と称することなど、すべて天子と同じ制度とするべきです。天地や祖先の祭祀、宗廟の祭祀などの際は「仮皇帝」と称し、臣民は「摂皇帝」と呼び、安漢公は「予」と自称し、朝廷での決裁においては常に皇帝の詔として「制」と称するようにするべきです。そうして大いなる天の意思を奉じ、漢王朝を輔翼し、孝平皇帝の幼い後継者を安んじ、安漢公に政治を託する意義を達成させ、天下を治め平安をもたらすことになるのです。
太皇太后や皇后に謁見する際には臣下となり、安漢公の采地においては諸侯の礼儀についての故事に沿って自ら政治を行うようにすべきです。」



元后は裁可した。翌年、「居摂」と改元した。


王莽、「仮皇帝」となる。



いよいよ、皇帝への道を本格的に歩み始めた。服装やら馬車やらの制度は基本皇帝と同等とするというのだから、世間的には皇帝そのものということだ。



引用される経書がなんだか恣意的に解釈されているような気がしてならないが、当時において、周公旦が天子の代理となって天子と同じふるまいをしていたのだ、という説は実際にあったのだろう。