『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その34

その33の続き。


是月、前莩光謝囂奏武功長孟通浚井得白石、上圓下方、有丹書著石、文曰「告安漢公莽為皇帝」。符命之起、自此始矣。
莽使羣公以白太后太后曰「此誣罔天下、不可施行!」太保舜謂太后「事已如此、無可奈何、沮之力不能止。又莽非敢有它、但欲稱攝以重其權、填服天下耳。」太后聽許。
舜等即共令太后下詔曰「蓋聞天生衆民、不能相治、為之立君以統理之。君年幼稚、必有寄託而居攝焉、然後能奉天施而成地化、羣生茂育。書不云乎?『天工、人其代之。』朕以孝平皇帝幼年、且統國政、幾加元服、委政而屬之。今短命而崩、嗚呼哀哉!已使有司徴孝宣皇帝玄孫二十三人、差度宜者、以嗣孝平皇帝之後。玄孫年在繈褓、不得至徳君子、孰能安之?安漢公莽輔政三世、比遭際會、安光漢室、遂同殊風、至于制作、與周公異世同符。今前莩光囂・武功長通上言丹石之符、朕深思厥意、云『為皇帝』者、乃攝行皇帝之事也。夫有法成易、非聖人者亡法。其令安漢公居攝踐祚、如周公故事、以武功縣為安漢公采地、名曰漢光邑。具禮儀奏。」
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

この月、前莩光の謝囂が武功県長孟通が井戸を浚渫していて、赤い顔料で「安漢公王莽に告ぐ。皇帝になれ」と書かれている上が丸く下が四角い白い石を発見したと上奏した。「天が下した証」が始まるのはここからであった。



王莽は大臣たちに元后に報告させた。元后は「これは天下全てを騙そうとするもの。これを天下に広めることなどできはしない」と言ったが、太保王舜が元后に「この事はここまで来てしまったのですから、いかんともしがたいことで、阻もうにも止めることはできません。また王莽も他意は無く、ただ摂政となって権限を重くして天下を鎮め服従させようと思っているだけです」と言ったので、元后は許した。



そこで王舜らは共に元后に言って詔を出させた。「聞いたところでは、天が民を生んだが、お互いに自ら治めることができなかったため、君主を置いて統治させたという。君主が幼年であれば、必ず後見人を置いて摂政させるようにし、それによって天の意思を奉じて地上の教化を成し遂げ、生きとし生けるもの全てが繁茂することができるのである。『書経』にも「天の工事を人が代わりに行う」と言っている。朕は孝平皇帝が幼年であったことからしばらく代わりに国政を取り仕切り、元服を待って国政を返上するつもりであったが、今、短命にも崩御してしまった。ああ、なんと哀しい事であろうか。今、既に孝宣皇帝の玄孫二十三人を呼び寄せ、ふさわしい者を孝平皇帝の後継者にしようとしている。だが玄孫はまだ襁褓を使う年齢である。最高の人格者を摂政としなければ、どうして天下を安んじることができようか。安漢公王莽は三代に渡って輔政となり、何度も立派な君主に出会うこととなり、漢王朝を安んじ輝かせ、全国の社会風俗を統一し、制度を作り、周公旦と時代は違えど同じ瑞祥が下されるに至った。今、前莩光の謝囂と武功県長の孟通が石に書かれた文の瑞祥を上奏した。朕がそれについて深く考えたところでは、「皇帝になれ」というのは皇帝を代行せよ、ということであろう。法があれば何かを成し遂げやすいが、聖人でなければ法を作ることはできない、という。安漢公は周公旦の故事のように摂政として皇帝の地位に就け。武功県は安漢公の官に付随する邑とし、「漢光邑」と改称する。その礼儀を定めて上奏せよ」



孺子嬰が登場し、王莽はついに皇帝の地位を代行することになった。



人臣の壁をついに突破してしまったのである。




分京師置前莩光・後丞烈二郡。更公卿・大夫・八十一元士官名位次及十二州名。
(『漢書』巻十二、平帝紀、元始四年)

なお、「前莩光」というのは首都近辺を二つの郡に分割したうちの一つであるという。


元の区画では武功県は右扶風に属していたというので、どうやら前莩光・後丞烈は首都長安とその周辺の諸県を再編したもののようだ。

漢書』百官公卿表下を見る限りでは、この制度が施行された後の元始五年においても「三輔」である京兆尹・右扶風・左馮翊が全て存在しているので、この三輔それぞれから県をいくつか分けて作ったのが前莩光・後丞烈なのだろう。

「前・後・左・右」と中央としての京兆尹という体制にしたということかもしれない。