『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その49

その48の続き。


及前孝哀皇帝建平二年六月甲子下詔書、更為太初元將元年。案其本事、甘忠可・夏賀良讖書臧蘭臺。臣莽以為元將元年者、大將居攝改元之文也、於今信矣。尚書康誥『王若曰「孟侯、朕其弟、小子封。」』此周公居攝稱王之文也。春秋隠公不言即位、攝也。此二經周公・孔子所定、蓋為後法。孔子曰『畏天命、畏大人、畏聖人之言。』臣莽敢不承用!臣請共事神祇宗廟、奏言太皇太后・孝平皇后、皆稱假皇帝。其號令天下、天下奏言事、毋言『攝』。以居攝三年為初始元年、漏刻以百二十為度、用應天命。臣莽夙夜養育隆就孺子、令與周之成王比徳、宣明太皇太后威徳於萬方、期於富而教之。孺子加元服、復子明辟、如周公故事。」奏可。衆庶知其奉符命、指意羣臣博議別奏、以視即真之漸矣。
期門郎張充等六人謀共劫莽、立楚王。發覺、誅死。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

また、以前孝哀皇帝は建平二年六月甲子に「太初元将元年」と改元する詔を下しました。そのことの本来淵源を調べると、甘忠可・夏賀良の予言書であり、それは蘭台に保管されています。
私が思いますに元将元年というのは、居摂に改元しようとしている、という意味の文なのであり、今やそれが信憑性のあることだとおわかりでしょう。
書経』康誥に「王は言った、「諸侯の長である朕の弟の封」と」とあるのは、周公旦が天子を代行して王を称したことを示す文です。『春秋』では魯の隠公について即位と言わず、「代行」と言っています。これらの経書は周公や孔子が著したものであり、その後の時代の規範になるものでありましょう。孔子は「天命を恐れ、聖人を恐れ、聖人の言葉を恐れる」と言っております。私もどうしてその言葉に従わずにおれましょうや。
神々や宗廟の祭祀を行う時、太皇太后や孝平皇帝に上奏する際、「仮皇帝」と名乗ることを願います。天下に命令する際や、天下の人々の上奏の事については、「代行」を言わないようにすることを願います。
居摂三年を初始元年とし、水時計の目盛は百二十とし、天命に対応させましょう。
私は日夜孺子嬰を養育して周の成王に匹敵する人徳の主となるようにし、太皇太后の威厳と徳を全土に知らしめ、人々が豊かになって教化されることを期しております。孺子嬰元服したら、周公旦の故事のように地位を返上いたします。」



上奏は裁可された。



人々は新たな天子の出現の予兆を取り上げていることを知り、群臣に広く議論させるよう指示して、真の天子への即位が次第に進んでいることを示した。




期門郎張充ら六人が王莽を脅迫して楚王を擁立しようと共謀したが、発覚して誅殺された。



王莽、「摂皇帝」から「仮皇帝」へとまたアップデート。



代行ではなく、本物になれるかもしれないという意味での「仮」なのだろう。





そして、なぜかここで「初始」へ改元



禅譲直前に改元ってどこかで聞いたことがありますねえ・・・?