『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その43

その42の続き。


莽乃上奏曰「明聖之世、國多賢人、故唐虞之時、可比屋而封、至功成事就、則加賞焉。至於夏后塗山之會、執玉帛者萬國、諸侯執玉、附庸執帛。周武王孟津之上、尚有八百諸侯。周公居攝、郊祀后稷以配天、宗祀文王於明堂以配上帝、是以四海之内各以其職來祭、蓋諸侯千八百矣。禮記王制千七百餘國、是以孔子著孝經曰『不敢遺小國之臣、而況於公侯伯子男乎?故得萬國之歡心以事其先王。』此天子之孝也。秦為亡道、殘滅諸侯以為郡縣、欲擅天下之利、故二世而亡。高皇帝受命除殘、考功施賞、建國數百、後稍衰微、其餘僅存。太皇太后躬統大綱、廣封功徳以勸善、興滅繼絶以永世、是以大化流通、旦暮且成。遭羌寇害西海郡、反虜流言東郡、逆賊惑衆西土、忠臣孝子莫不奮怒、所征殄滅、盡備厥辜、天子咸寧。今制禮作樂、實考周爵五等、地四等、有明文。殷爵三等、有其説、無其文。孔子曰『周監於二代、郁郁乎文哉!吾從周。』臣請諸將帥當受爵邑者爵五等、地四等。」奏可。於是封者高為侯伯、次為子男、當賜爵關内侯者更名曰附城、凡數百人。撃西海者以「羌」為號、槐里以「武」為號、翟義以「虜」為號。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

王莽はそこで上奏した。「聖人の世は国に賢人が多いといいます。故に唐虞の時には家々がみな封建され、功績があり何事か成し遂げれば恩賞が加えられました。夏の塗山での集会では玉を持つ諸侯、帛を持つ附庸が合わせて一万国もありました。周の武王の孟津のほとりでも、なお八百の諸侯はありました。周公旦が天子を代行した時、后稷の祭祀を行って天に配置し、文王を明堂で祭祀して上帝に配置し、それによって天下の人々がそれぞれの職分に応じて祭祀を手伝いに来ました。おそらく諸侯は千八百であったのでしょう。『礼記』王制では千七百余国があり、これゆえに孔子は『孝経』を著して「小国の臣下ですらゆるがせにしない。まして公・侯・伯・子・男はどうであろうか。故に万国の歓心を買って先王に仕える」と言いました。これは天子にとっての孝行なのです。
秦は無道の行いをし、諸侯を滅ぼして郡県を作って天下の利益を独占しようとし、そのために二世で滅びました。漢の高祖は天命を受けて残虐な者を排除し、そのため教化が行き届き、功績を考慮して恩賞を与え、数百の国を建てましたが、その後衰微して残る国はわずかです。
太皇太后は自ら綱紀を統べ、広く功績や徳に応じて封建して善行を勧め、絶滅した国とこしえに復興し、これによって教化はいきとどき、一日にして完成しようとしていました。
羌が西海郡で攻め寄せ、反乱者が東郡で流言を広め、逆賊が西方の人々を惑わしたため、忠臣や孝行者は怒らない者は無く、征伐したところみな滅ぼされ、その罪に伏して天子は安心しました。今、礼楽を制定する際、考えてみると周の五等の爵位、四等級の土地は明文がありますが、殷の三等の爵位は説はありますが明文がありません。孔子は「周は二代に鑑み、華やかである。私は周の制度に従おう」と言いました。私めは将帥で爵位や領土を受けるべき者に周の五等の爵位、四等の土地に応じた恩賞を与えることを請い願います」



その上奏は裁可された。



そこで高い爵邑を得る者は侯・伯となり、その次は子・男となり、関内侯を得るべき者は代わりに「附城」となり、およそ数百人が封建された。西海を討った者は称号に「羌」が含まれ、槐里の趙明らを討った者は称号に「武」が含まれ、翟義を討った者は称号に「虜」が含まれた。




王莽、「五等爵」を復活させるの巻。



「公侯伯子男」という奴である。




漢において爵位は基本的には「王」と「侯」のみであったわけだから*1、結構大きな変化である。



今回の封爵で「公」がいないのは、主に「安漢公」と被るというのが理由なんだろうなあ。まあ、「公」は最上位なのでそう簡単に出せないというのもあるだろうが。

*1:実際には「公」とか「君」といった称号もあったが。