『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その9

その8の続き。


於是附順者拔擢、忤恨者誅滅。
王舜・王邑為腹心、甄豐・甄邯主撃斷、平晏領機事、劉歆典文章、孫建為爪牙。豐子尋・歆子棻・涿郡崔發・南陽陳崇皆以材能幸於莽。
莽色窅而言方、欲有所為、微見風采、黨與承其指意而顯奏之、莽稽首涕泣、固推讓焉、上以惑太后、下用示信於衆庶。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

このようにして、王莽は自分に従う者は抜擢し、逆らう者は誅滅していった。



親族の王舜・王邑を腹心とし、甄豐・甄邯が排撃・処断を受け持ち、平晏が機密事項を総領し、劉歆が文章を作り、孫建が実力行使する際の尖兵となった。甄豐の子の甄尋、劉歆の子の劉棻、涿郡の人崔発、南陽の人陳崇がそれぞれその能力により王莽に重用された。



王莽は厳格そうな風貌で正論を述べ、その一方で何か欲することがあれば態度で示し、一味がその意図するところを受けて上奏し、王莽は平伏して辞退するようにしたので、上は元后を惑わし、下は人々の信用を集めた。



王莽の功臣たち。


王舜・王邑はいずれも王莽の親族。
王邑は従兄弟である。




甄豊と甄邯は姓が同じな上にしばしば一組で扱われるが、親族なのかどうか今のところ良くわからない。


ちなみに甄邯は三国時代の魏の烈祖様の母である甄氏の先祖とされている。ということは甄邯は中山の人であろうか。



平晏は哀帝の時に丞相にまでなった平当の子。



劉歆はかなり有名だから詳しく言う必要もないだろうが、劉向の子で当時の大学者の一人と言ってよいのだろう。この時期の実際の姓名は「劉秀」である。



孫建について、同一人物かどうかはっきりしないところもあるが、『漢書』段会宗伝によると前漢末期の西域都護に孫建という人物がいる。同一人物ならこの孫建は西域での軍事経験を積んだ武闘派ということになるのだろう。



崔発は後漢の崔駰の祖父の兄。この崔氏はどうやら王莽に親子揃って厚遇されたようだ。



陳崇は南陽の大族と色々と付き合いがあったようで、後にあの南陽の劉秀さんこと光武帝も面会することになる。王莽の領国が南陽なので、そこで陳崇と王莽の関係が出来たのだろうか。