『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その36

その35の続き。



居攝元年正月、莽祀上帝於南郊、迎春於東郊、行大射禮於明堂、養三老五更、成禮而去。
置柱下五史、秩如御史、聽政事、侍旁記疏言行。
三月己丑、立宣帝玄孫嬰為皇太子、號曰孺子。
以王舜為太傅左輔、甄豐為太阿右拂、甄邯為太保後承。又置四少、秩皆二千石。
四月、安衆侯劉崇與相張紹謀曰「安漢公莽專制朝政、必危劉氏。天下非之者、乃莫敢先舉、此宗室恥也。吾帥宗族為先、海内必和。」紹等從者百餘人、遂進攻宛、不得入而敗。
紹者、張竦之從兄也。竦與崇族父劉嘉詣闕自歸、莽赦弗罪。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)


居摂元年正月、王莽は上帝を南郊で祀り、春を東郊で迎え、大射礼を明堂で行い、三老や五更を扶養し、礼を完成させて辞去した。



柱下五史を置き、御史と同じ官秩とし、政治の決裁の場の傍らで言行を記録させた。



三月己丑、宣帝の玄孫の劉嬰を皇太子に立て、「孺子」と呼んだ。



王舜を太傅左輔に、甄豊を太阿右拂に、甄邯を太保後承とし、また官秩二千石の「四少」を置いた。




四月、安衆侯劉崇が安衆侯相の張紹と「安漢公は朝廷で政治を壟断しており、必ずや劉氏を危うくするだろう。天下でそのことを良くないと思っていながら先んじて行動に移さないのは、これは宗室の恥である。私が宗族を率いて先駆けとなれば、天下は必ずや治まることであろう」と謀った。



張紹は百人あまりを従えて宛城を攻めたが、入城できずに敗れた。




張紹は張竦の従兄であったので、張竦は劉崇の族父劉嘉と共に自ら宮城の門へ至っ(て自首し)たが、王莽は許して罪を問わなかった。



「四少」とは、たぶん太師・太傅・太阿・太保に対応するものとして少師・少傅・少阿・少保を置いたものではなかろうか。


元は太師・太傅・太保・少傅を「四輔」と呼んでいたので、この時に皇帝の教育役・傅役を拡大し再編したのだろう。






安衆侯はあの後漢光武帝の実家である舂陵侯家と同じく長沙定王(景帝の子)の子孫であり、その領土は南陽郡の宛県の一部だったところである。


宛城を攻めたというのは、すぐ隣にある大都市であり、落とせれば戦略的にも政治的にも大きな衝撃を与えることができるということだろうと思われる。



あっさり失敗しているとはいえ、真っ先に反乱を起こして百名もの手勢を集められたあたり、安衆侯家はおそらく元からそれなりの勢力を誇る家だったのではなかろうか。




劉隆字元伯、南陽安衆侯宗室也。王莽居攝中、隆父禮與安衆侯崇起兵誅莽、事泄、隆以年未七歳、故得免。
(『後漢書』列伝第十二、劉隆伝)

劉宣字子高、安衆侯崇之從弟、知王莽當簒、乃變名姓、抱經書隱避林藪。建武初乃出、光武以宣襲封安衆侯。
(『後漢書』列伝第十五、卓茂伝)


なお安衆侯家の劉氏の一部は難を逃れて後漢光武帝に仕えたり安衆侯再興を許されたりしている。

王莽へ真っ先に反抗した劉氏という、ある意味栄光の家である上、光武帝たちの遠縁の同族(族兄などと記載されている)だったことも影響しているのかもしれない。