賊臣の名は。

尚書有缺、詔將大夫六百石以上試對政事・天文・道術、以高第者補之。
(翟)酺自恃能高、而忌故太史令孫懿、恐其先用、乃往候懿。既坐、言無所及、唯涕泣流連。懿怪而問之、酺曰「圖書有漢賊孫登、將以才智為中官所害。觀君表相、似當應之。酺受恩接、悽愴君之禍耳!」懿憂懼、移病不試。由是酺對第一、拜尚書
【注】
春秋保乾圖曰「漢賊臣名孫登、大形小口、長七尺九寸、巧用法、多技方、詩書不用、賢人杜口」也。
(『後漢書』列伝第三十八、翟酺伝)

後漢の翟酺という者は、自分が皇帝の秘書官である顕官の尚書になろうとして、ライバルの孫懿を蹴落とそうと思った。



そこで、孫懿に会って、何も言わずに涙を流すという謎の行動に出た。



怪しんだ孫懿がどうしたのかと聞くと、翟酺は「よげんの書には「漢の賊臣孫登がその才能のために殺される」という言葉がありますが、そこに記される容貌はあなたの事ではないかと思うのです。貴方がこれから受けるであろう災いのことを思うと涙が出てきたのです」と答えた。




孫懿は危機感を覚えて病気と称して尚書への選抜に参加せず、強力なライバルがいなくなった翟酺が晴れて尚書になったという。


孫懿としては尚書になると責任も重くなり預言の通りになってしまう、と感じたのだろう。





預言というのも使いようということか。



それにしても、王莽時代頃から後漢にかけて、「孫登」という名が預言に記される漢にとっての害悪であった、というのは興味深い話ではなかろうか。




よもや後漢の時代に「登」と名付けられた孫氏がいたりはしなかったですよねえ・・・?