『晋書』宣帝紀を読んでみよう:その5

その4(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/06/27/000100)の続き。





及魏武薨于洛陽、朝野危懼。帝綱紀喪事、内外肅然、乃奉梓宮還鄴。
魏文帝即位、封河津亭侯、轉丞相長史。會孫權帥兵西過、朝議以樊・襄陽無穀、不可以禦寇。時曹仁鎮襄陽、請召仁還宛。帝曰「孫權新破關羽、此其欲自結之時也、必不敢為患。襄陽水陸之衝、禦寇要害、不可棄也。」言竟不從。仁遂焚棄二城、權果不為寇、魏文悔之。
及魏受漢禪、以帝為尚書。頃之、轉督軍御史中丞、封安國郷侯。
黃初二年、督軍官罷、遷侍中・尚書右僕射。
(『晋書』巻一、宣帝紀

魏武、死ぬ。

太祖崩洛陽、(賈)逵典喪事。時鄢陵侯彰行越騎將軍、從長安來赴、問逵先王璽綬所在。逵正色曰「太子在鄴、國有儲副。先王璽綬、非君侯所宜問也。」遂奉梓宮還鄴。
(『三国志』巻十五、賈逵伝)

三国志』では魏武の遺体を守り鄴へ帰ったのは賈逵の功績とされている。まあ、司馬懿も死に際の魏武の側にいたのであれば、賈逵と共に帰還を差配した集団の一員にはなっていただろう。




曹仁、襄陽からへと呼び戻され、襄陽は放棄される。漢中の時と同様に、「保てないならメチャクチャにして帰ればいいじゃん」という戦略なのか。孫権(味方)が劉備の方へ攻め込んでくれれば襄陽は攻められないからへーきへーき、という事か。


司馬懿は要衝なので放棄しない方がいい、との仰せ。

後召還屯宛。孫權遣將陳邵據襄陽、詔仁討之。(曹)仁與徐晃攻破邵、遂入襄陽、使將軍高遷等徙漢南附化民於漢北、文帝遣使即拝仁大將軍。
(『三国志』巻九、曹仁伝)


その後、孫権は廃墟のようになったであろう襄陽を占領、結局魏文は襄陽に派兵して攻め取る羽目になった。それで後悔したのだろうか。




司馬懿は漢魏禅譲の際には督軍御史中丞として一連の儀式の中にあったようだ。


儀式が問題なく進むよう、また軍などの暴発を防ぐよう、管理監督していたというところだろうか。


魏文からすれば信頼できる腹心で、以前の魏武への進言から見ても禅譲に積極的だったから、任されたポジションだったのかもしれない。




次の侍中・尚書右僕射というのも、出世コースに乗ったのだ、と捉えて良さそうに思う。