『晋書』宣帝紀を読んでみよう:その24

その23(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/07/16/000100)の続き。





三年春正月、王淩詐言呉人塞涂水、請發兵以討之。帝潛知其計、不聽。
夏四月、帝自帥中軍、汎舟沿流、九日而到甘城。淩計無所出、乃迎於武丘、面縛水次、曰「淩若有罪、公當折簡召淩、何苦自來邪!」帝曰「以君非折簡之客故耳。」即以淩歸于京師。道經賈逵廟、淩呼曰「賈梁道!王淩是大魏之忠臣、惟爾有神知之。」至項、仰鴆而死。收其餘黨、皆夷三族、并殺彪。悉録魏諸王公置于鄴、命有司監察、不得交關。
天子遣侍中韋誕持節勞軍于五池。帝至自甘城、天子又使兼大鴻臚・太僕庾嶷持節、策命帝為相國、封安平郡公、孫及兄子各一人為列侯、前後食邑五萬戸、侯者十九人。固讓相國・郡公不受。
(『晋書』巻一、宣帝紀

司馬懿、王淩を電光石火の早業で捕縛。全く態勢の整わないまま司馬懿の軍がやってきてしまっては、大人しくお縄に就くしかないだろう。老齢の司馬懿がそんなに早くこっちまで来るはずない、みたいな思い込みもあったのかもしれない。


司馬懿はそういう人の心理の裏をかくのが得意な印象がある。


三年春正月、荊州刺史王基・新城太守州泰攻呉、破之、降者數千口。
二月、置南郡之夷陵縣以居降附。
三月、以尚書令司馬孚為司空。
四月甲申、以征南將軍王昶為征南大將軍。
壬辰、大赦
丙午、聞太尉王淩謀廢帝、立楚王彪、太傅司馬宣王東征淩。
五月甲寅、淩自殺。
六月、彪賜死。
(『三国志』巻四、斉王芳紀、嘉平3年)


この年は呉とは実際に戦っていたが、王淩の反乱は微妙に時期がズレていた。同時期だったらもっと大事になっていたのだろう。

また、そういう時期だからこそ呉を討ちたい、という嘘が通りやすいというのもあっただろう。看破されていたわけだが。



青龍中、帝東征、乗輦入逵祠、詔曰「昨過項、見賈逵碑像、念之愴然。古人有言、患名之不立、不患年之不長。逵存有忠勳、沒而見思、可謂死而不朽者矣。其布告天下、以勸將來。」
(『三国志』巻十五、賈逵伝)

王淩が賈逵の廟で「私は魏の忠臣だ」と言ったというのは、たぶん賈逵が曹操の死亡時に軍と曹操の遺体を守り抜いた事などを評価され、烈祖様からもじきじきにお褒めの言葉(賈逵はもう死んでいるが)を貰っていた事で、賈逵を魏の忠臣と見なしていたからであろうか。


そんな人物に敗戦の罪を着せようとした曹氏がいたという話もあるのが悲しい。




司馬懿、王淩捕縛の功績を受けて相国や郡公を与えられるが固辞。


相国となると丞相より上という扱いになる。官位で言えば漢王朝における曹操よりも更に上位という事だ。



いよいよ、司馬懿曹操の辿った道を歩み始めた感じがある。それとも、歩まざるを得なくなったと言うべきなのか。