『史記』のタイムパラドックス

太皇太后詔大司徒・大司空「蓋聞治國之道、富民為始。富民之要、在於節儉。孝經曰『安上治民、莫善於禮』。『禮、與奢也寧儉』。昔者管仲相齊桓、霸諸侯、有九合一匡之功、而仲尼謂之不知禮、以其奢泰侈擬於君故也。夏禹卑宮室、惡衣服、後聖不循。由此言之、治之盛也、徳優矣、莫高於儉。儉化俗民、則尊卑之序得、而骨肉之恩親、爭訟之原息。斯乃家給人足、刑錯之本也歟?可不務哉!夫三公者、百寮之率、萬民之表也。未有樹直表而得曲影者也。孔子不云乎、『子率而正、孰敢不正』。『舉善而教不能則勸』。維漢興以來、股肱宰臣身行儉約、輕財重義、較然著明、未有若故丞相平津侯公孫弘者也。位在丞相而為布被、脱粟之飯、不過一肉。故人所善賓客皆分奉祿以給之、無有所餘。誠内自克約而外從制。汲黯詰之、乃聞于朝、此可謂減於制度而可施行者也。徳優則行、否則止、與内奢泰而外為詭服以釣虚譽者殊科。以病乞骸骨、孝武皇帝即制曰『賞有功、褒有徳、善善惡惡、君宜知之。其省思慮、存精神、輔以醫藥』。賜告治病、牛酒雜帛。居數月、有瘳視事。至元狩二年、竟以善終于相位。夫知臣莫若君、此其效也。弘子度嗣爵、後為山陽太守、坐法失侯。夫表徳章義、所以率俗窅化、聖王之制、不易之道也。其賜弘後子孫之次當為後者爵關内侯、食邑三百戸、徴詣公車、上名尚書、朕親臨拜焉。」
(『史記』巻一百一十二、平津侯主父列伝)

この文は簡単に言うと「宰相でありながら自ら質素倹約を実行した者といえば公孫弘だなあ。そんなエライ公孫弘の子孫を関内侯にしてやることにしよう」という内容である。





あれ?『史記』・・・?




そう、これは『史記』平津侯主父列伝(平津侯が公孫弘のこと)の本文として収録されている。





史記』はたまに「褚先生」(褚少孫)という人物による加筆部分があるのだが、褚先生は前漢後半、宣帝頃の人である。



一方、上記の詔は「大司徒・大司空」という前漢では末期(哀帝・平帝)の頃にしか見られなかった官名が出てきていることから、平帝期(王莽が権力を握った時代)のことと思われる。




つまり、『史記』には褚先生でもない、前漢末期か更にそれ以降の時代の加筆者がいたことがわかるのである。





班固稱曰、公孫弘・卜式・兒𥶡皆以鴻漸之翼困於燕雀、遠迹羊豕之輭、非遇其時、焉能致此位乎?是時漢興六十餘載、海内乂安、府庫充實、而四夷未賓、制度多闕、上方欲用文武、求之如弗及。始以蒲輪迎枚生、見主父而歎息。羣臣慕嚮、異人並出。卜式試於芻牧、弘羊擢於賈豎、衞青奮於奴僕、日磾出於降虜、斯亦曩時版築飯牛之朋矣。漢之得人、於茲為盛。儒雅則公孫弘・董仲舒・兒𥶡、篤行則石建・石慶、質直則汲黯・卜式、推賢則韓安國・鄭當時、定令則趙禹・張湯、文章則司馬遷・相如、滑稽則東方朔・枚皋、應對則嚴助・朱買臣、暦數則唐都・落下閎、協律則李延年、運籌則桑弘羊、奉使則張騫・蘇武、將帥則衞青・霍去病、受遺則霍光・金日磾。其餘不可勝紀。是以興造功業、制度遺文、後世莫及。孝宣承統、纂脩洪業、亦講論六蓺、招選茂異、而蕭望之・梁丘賀・夏侯勝・韋玄成・嚴彭祖・尹更始以儒術進、劉向・王褒以文章顯。將相則張安世・趙充國・魏相・邴吉・于定國・杜延年、治民則黄霸・王成・龔遂・鄭弘・邵信臣・韓延壽・尹翁歸・趙廣漢之屬、皆有功迹見述於後。累其名臣、亦其次也。
(『史記』巻一百一十二、平津侯主父列伝)

そして、『史記』同列伝は更に続けてこういった文も載せる。



「班固」とあるように、これは班固の『漢書』巻五十八、公孫弘卜式児寛伝の末尾の「賛」の引用である。



先に成立した『史記』が、あとから成立した『漢書』を引用するという時空の乱れが起こっている。




史記』はついに「前漢」の壁すらも破ってしまったのである。





それとも、司馬遷というのは時間跳躍の能力者だったのだろうか・・・?



*1

*1:このネタはhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20090226/1235657317で既に紹介した内容をもとに再構成したものです。