『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その45

その44(https://t-s.hatenablog.com/entry/2018/12/31/000100)の続き。





楚地悉平、獨魯後降。
初懷王封羽為魯公、故以魯為號、葬羽於穀城山下、漢王為之發哀。
封項伯等四人為列侯、賜姓劉氏。
本傳曰、項羽背關懷楚、放逐義帝、自矜功伐、而不師古、霸王之業、始欲以力征、經營天下、五年卒亡、身死東城、尚不覺悟、以為非己之罪。豈不過哉。
(『漢紀』高祖皇帝紀巻第三)

項羽は滅び、劉邦によって葬られる。


項王已死、楚地皆降漢、獨魯不下。漢乃引天下兵欲屠之、為其守禮義、為主死節、乃持項王頭視魯、魯父兄乃降。始、楚懷王初封項籍為魯公、及其死、魯最後下、故以魯公禮葬項王穀城。漢王為發哀、泣之而去。
(『史記』巻七、項羽本紀)

魯は項羽が封じられた地であったため、魯の人間が項羽に義理立てし、項羽の死を確認するまでは降伏しなかったという。



そして、劉邦項羽を「魯公」として葬ったとの事である。


これは劉邦がなっていた「沛公」と同格の地位ではないかと思うが、これはもしかすると「沛県・魯県の君主」、漢の制度で言えば「侯」に当たるのかもしれない。



楚の懐王によって決められた、自称ではない地位だけを認める(事実上項羽が決めた地位は認めない)、という事だったのだろう。




そして、「あんだけやらかしておいて「俺のせいじゃない」とかバカじゃねーの」という手厳しいコメントは『史記項羽本紀の太史公のものであるが、これがここでも引用されているという事は、後漢末においてもそのあたりの評価はあまり変わりない、という事だろうか。