昨日の話(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/11/07/000100)だが、景帝の時の匈奴王の封侯は景帝中3年に集中している。
この年、確かに匈奴王が降伏してきて列侯になったとされている。
まあ、「二人」となっているのは7人封侯された事になっている表と食い違うが。
後歳餘、孝文帝崩、孝景帝立、而趙王遂乃陰使人於匈奴。呉楚反、欲與趙合謀入邊。漢圍破趙、匈奴亦止。自是之後、孝景帝復與匈奴和親、通關市、給遺匈奴、遣公主、如故約。終孝景時、時小入盜邊、無大寇。
(『史記』巻一百十、匈奴列伝)
だが、この時期の事を匈奴伝では特に記さない。
流石に匈奴王複数名が一気に漢に奔ったとなればそれなりの事件じゃないかと思うのだが、匈奴としては「よくある主力のFA流出」みたいなちょっとした事だったのだろうか?
それとも、匈奴王というのは降伏者たちの自称か何かで、実際にはそこまで大勢に影響を与えない程度の者たちだったのだろうか?