高陽許氏

初、中領軍高陽許允與(李)豐・(夏侯)玄親善。
【注】
魏略曰、允字士宗、世冠族。父據、仕歴典農校尉・郡守。允少與同郡崔贊俱發名於冀州、召入軍。
(『三国志』巻九、夏侯玄伝)

三国時代の許允という人物は、冀州の河間国(後漢時代)高陽県の出身であった。





許氏出自姜姓。炎帝裔孫伯夷之後、周武王封其裔孫文叔於許、後以為太嶽之嗣、至元公結為楚所滅、遷于容城、子孫分散、以國為氏。自容城徙冀州高陽北新城都鄉樂善里。秦末有許猗、隱居不仕。曾孫毗、漢侍中・太常。生徳、字伯饒、安定・汝南太守、因居平輿。四子、據・政・邈・勁。據、大司農。生允、字士崇、魏中領軍・鎮北將軍。
(『新唐書』巻七十三上、宰相世系表三上)

新唐書』宰相世系表では許氏はまず容城に遷り、それから分散して高陽に住んだ者もいるとされるが、許允の祖父の代に平輿(汝南郡)に住むようになったとしている。



となると許允の時には高陽ではなくて平輿を本貫としていたということなのだろうか?



その点については「許徳は平輿に遷ったが、許拠は高陽のままだった」という可能性も考えられるが、この系図を信じる限り、秦末の許猗から魏末期の許允までに七世代しかないことも気になる。



その間には400年以上あるわけなので、毎世代60歳くらいで後継ぎが生まれるみたいな関係でないと起こらない世代数だ。




つまり、簡単に言えばとんでもなくガバガバな系図だということだ。




あと、汝南平輿といえば許劭(月旦評の人)らを輩出した許氏の本貫であるが、そうであれば許允の祖父の代に初めて移住したというのとは明らかに合わない(汝南平輿の許氏は後漢初期から人物を輩出している)。




これは無理に高陽許氏と平輿許氏を系図上合体させようとしたことで生じた歪みであろうか。





これが元々の六朝・唐代許氏の系図に現れていた時空の歪みなのか、『新唐書』編纂過程で生じた歪みなのかはわからないが、こういったガバガバ系図には気を付けなければいけない。