宣文君

韋逞母宋氏、不知何郡人也、家世以儒學稱。宋氏幼喪母、其父躬自養之。及長、授以周官音義、謂之曰「吾家世學周官、傳業相繼、此又周公所制、經紀典誥、百官品物、備於此矣。吾今無男可傳、汝可受之、勿令絶世。」屬天下喪亂、宋氏諷誦不輟。
其後為石季龍徙之於山東、宋氏與夫在徙中、推鹿車、背負父所授書、到冀州、依膠東富人程安壽、壽養護之。逞時年小、宋氏晝則樵採、夜則教逞、然紡績無廢。壽毎歎曰「學家多士大夫、得無是乎!」逞遂學成名立、仕苻堅為太常。
堅嘗幸其太學、問博士經典、乃憫禮樂遺闕。時博士盧壼對曰「廢學既久、書傳零落、比年綴撰、正經粗集、唯周官禮注未有其師。竊見太常韋逞母宋氏世學家女、傳其父業、得周官音義、今年八十、視聽無闕、自非此母無可以傳授後生。」於是就宋氏家立講堂、置生員百二十人、隔絳紗幔而受業、號宋氏為宣文君、賜侍婢十人。周官學復行於世、時稱韋氏宋母焉。
(『晋書』巻九十六、列女伝)

先日の記事孔子になぞらえられた女性「韋宣文君」とは何者か。




彼女は晋代(五胡十六国時代)の人で、韋氏に嫁ぎ韋逞の母となった宋氏。




彼女は家に伝わった『周礼』の学問を修め、戦乱や移住の最中にあっても学問をやめなかった。



息子に対しても昼は薪を取り、夜は勉強を教え、紡績もまた疎かにしなかったという。




学問の衰退を嘆く苻堅に対して当時の博士が彼女が『周礼』を修めていると勧めたため、『周礼』は彼女によって復興したのだということである。






儒学の世界における功労者ということは確かだと思うが、唐の宋氏が彼女があたかも筆頭であるかのように扱うのは、同姓であるという親近感(身びいき)が含まれていそうな気もするなあ・・・。