王仁なのか王述なのか

(馬)嚴字威卿。父余、王莽時為楊州牧。嚴少孤而好撃劒、習騎射。
【注】
東觀記「余卒時、嚴七歳、依姉壻父九江連率平阿侯王述。明年、母復終、會述失郡、居沛郡。建武三年、余外孫右扶風曹貢為梧安侯相、迎嚴歸、養視之。至四年、叔父援從車駕東征、過梧安、乃將嚴兄弟西。嚴年十三至雒陽、留寄郎朱仲孫舍、大奴步護視之也。」
(『後漢書』列伝第十四、馬厳伝)

馬厳は馬援の兄、馬余の子である。



馬余は七歳の馬厳を残して死んでしまい、馬厳は姉の夫の父である平阿侯王述に保護されたのだそうだ。





その姉の夫本人こそ昨日の記事の王磐ではないかと思うのだが、その記事では王磐は「王莽の従兄の平阿侯王仁の子」であり、今日の記事の方では姉の夫は「平阿侯王述の子」である。




後遂遣使者迫守(王)立・仁令自殺、賜立諡曰荒侯、子柱嗣、仁諡曰刺侯、子術嗣。是歳元始三年也。
(『漢書』巻九十八、元后伝)

平阿侯は王譚(王莽の叔父)から王仁が継ぎ、王仁は王莽によって平帝時代に殺されてその子の王術が継いだとされている。



王術=王述であるのはまず確実なので、『後漢書』本伝の王磐の記事と注の『東観漢記』の記事では完全に一世代ズレて記録されていることになる。






そもそもその二つの記事は別の人物を指している(2代続けて馬氏が平阿侯家に娘をやった)可能性も一応無くは無いが、まあ多分平阿侯が何代目の人物を指すのかについて『後漢書』が混乱しているんだろうな。