『漢書』王莽伝を読んでみよう:中その31

その30の続き。


初、五威將帥出、改句町王以為侯、王邯怨怒不附。莽諷牂柯大尹周歆詐殺邯。邯弟承起兵攻殺歆。
先是、莽發高句驪兵、當伐胡、不欲行、郡強迫之、皆亡出塞、因犯法為寇。
遼西大尹田譚追撃之、為所殺。州郡歸咎於高句驪侯騶。
嚴尤奏言「貉人犯法、不從騶起、正有它心、宜令州郡且尉安之。今猥被以大罪、恐其遂畔、夫餘之屬必有和者。匈奴未克、夫餘・穢貉復起、此大憂也。」
莽不尉安、穢貉遂反、詔尤撃之。尤誘高句驪侯騶至而斬焉、傳首長安
莽大説、下書曰「乃者命遣猛將、共行天罰、誅滅虜知、分為十二部、或斷其右臂、或斬其左腋、或潰其胸腹、或紬其両脅。今年刑在東方、誅貉之部先縱焉。捕斬虜騶、平定東域、虜知殄滅、在于漏刻。此乃天地羣神社稷宗廟佑助之福、公卿大夫士民同心將率虓虎之力也。予甚嘉之。其更名高句驪為下句驪、布告天下、令咸知焉。」
於是貉人愈犯邊、東北與西南夷皆亂云。
(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)

当初、五威将・帥が各地へ出て句町王を侯に改めた際、句町王邯は怒って新に付き従わなかった。王莽は牂柯大尹周歆にほのめかし、周歆は王莽の意を忖度して句町王邯を謀殺した。句町王邯の弟の承は挙兵して周歆を攻め殺した。



それ以前、王莽は高句驪の兵を徴発して匈奴を討とうとしたが、高句驪は行こうとせず、郡はそれを無理強いしたため、みな逃げて城壁を超え、そこで律令を犯して攻撃するようになった。
遼西大尹田譚はそれを追撃したが逆に殺された。州・郡はその罪は高句驪侯騶にあると言った。



厳尤(荘尤)は上奏した。「北方異民族が法を犯すのは、高句驪侯騶から始まっているのではなく、他の原因があるはずです。州・郡にはしばらく高句驪侯騶を慰安させるべきでしょう。今、みだりに大罪を被せるようにしてしまうと、最終的には反乱してしまい、夫余たちにも連合する者が現われるでしょう。匈奴にまだ勝利していないうちに夫余や北方異民族まで挙兵するのは大変憂慮すべき事態です」
しかし王莽は慰安しなかったため、北方異民族たちは反旗を翻した。そこで王莽は厳尤に攻撃を命じた。厳尤は高句驪侯騶を誘い出して斬首し、首を長安へ届けさせた。



王莽は大いに喜んで命令を下した。「先に猛将たちに天罰を実行するよう命じて反乱者知を誅滅させ、十二分割してある者は右腕を切断し、ある者は左腕を斬り落とし、ある者は胸や腹を潰し、ある者は脇腹を抜き出そうとしている。今年刑罰を行うのは東方であり、北方異民族の誅罰がその先駆けである。反乱者騶を捕え殺し、東方を平定したので、反乱者知を滅ぼすのも間近である。これはまさに天地、神々、社稷、宗廟の助けと大臣、官吏、民が力を合わせて猛獣のごとき力を発揮したお蔭である。予は大変喜ばしく思う。「高句驪」を「下句驪」と改名し、このことを天下に布告して皆に知らしめることとする」



その後北方異民族の侵攻は更に激しくなり、東北方面と西南夷が共に混乱するようになった。



王莽、高句麗を改名するの巻。




東北方面が混乱するということは中国のコントロールを離れて匈奴に付き従う勢力が出てくるということなので、匈奴を攻めようとしている状況で混乱に拍車を掛ける行為は愚策と言ってもいいのではなかろうか。



今回の見どころは荘尤は反対しているのに真逆とも言える命令を下す王莽さん。




匈奴の時もそうだが、もしかすると王莽は現実で対応困難な状況になると名前を変えて一種形而上的な効果に期待するのかもしれない。