武帝亦遵漢魏之典、既葬除喪、然猶深衣素冠、降席撤膳。
太宰司馬孚・太傅鄭沖・太保王祥・太尉何曾・司徒領中領軍司馬望・司空荀邈・車騎將軍賈充・尚書令裴秀・尚書僕射武陔・都護大將軍郭建・侍中郭綏・中書監荀勖・中軍將軍羊祜等奏曰「臣聞禮典軌度、豐殺隨時、虞夏商周、咸不相襲、蓋有由也。大晉紹承漢魏、有革有因、期於足以興化而已、故未得皆返太素、同規上古也。陛下既以俯遵漢魏降喪之典、以濟時務、而躬蹈大孝、情過乎哀、素冠深衣、降席撤膳、雖武丁行之於殷世、曾閔履之於布衣、未足以踰。方今荊蠻未夷、庶政未乂、萬機事殷、動勞神慮、豈遑全遂聖旨、以從至情。臣等以為陛下宜割情以康時濟俗、輒敕御府易服、内者改坐、太官復膳、諸所施行、皆如舊制。」
詔曰「毎感念幽冥、而不得終苴絰於草土、以存此痛、況當食稻衣錦、誠詭然激切其心、非所以相解也。吾本諸生家、傳禮來久、何心一旦便易此情於所天!相從已多、可試省孔子答宰我之言、無事紛紜也。言及悲剝、奈何!奈何!」
孚等重奏「伏讀聖詔、感以悲懐、輒思仲尼所以抑宰我之問、聖思所以不能已已、甚深甚篤。然今者干戈未戢、武事未偃、萬機至重、天下至衆。陛下以萬乘之尊、履布衣之禮、服粗席稾、水飲疏食、殷憂内盈、毀悴外表。而躬勤萬機、坐而待旦、降心接下、仄不遑食、所以勞力者如斯之甚。是以臣等悚息不寧、誠懼神氣用損、以疚大事。輒敕有司、改坐復常、率由舊典。惟陛下察納愚款、以慰皇太后之心。」
又詔曰「重覽奏議、益以悲剝、不能自勝、奈何!奈何!三年之喪、自古達禮、誠聖人稱情立衷、明恕而行也。神靈日遠、無所訴告、雖薄於情、食旨服美、所不堪也。不宜反覆、重傷其心、言用斷絶、奈何!奈何!」
帝遂以此禮終三年。
(『晋書』巻二十、礼志中)
晋の武帝司馬炎は、父司馬昭の死後(司馬炎の皇帝即位直後でもある)、これまでの制度上の喪(漢の文帝以来の三十六日の喪)が明けた後も普段着に白い冠を着用し、座席を降りて食膳を減らすという、服喪の続きをやり続けたという。
本来の「三年の喪」なら墳墓の側にあばら家を立ててそこで餓死寸前の生活を続けるということになっているので、それと比べればかなりヌルいことにはなるが、まだ呉が服属していない戦時でもあり、皇帝の激務の中で続けることは司馬炎の健康が案じられる事態であった。
そこで宰相クラスの大臣たちが連名でなんとかやめるようにとお願いしたが、司馬炎は「俺の悲しみは止められねえんだぜ。ウチの家はもともと儒学者の家でこういうことをずっと伝えられてきたのだし、いきなり変えられねえよ。孔子と宰我の問答*1の通りだ。」などと言い、やめようとしなかった。
大臣ズは再度説得を試みたがそれでも司馬炎の意志は変えられず、結局司馬炎は三年その状態を継続したのだという。
おそらくだが、昨日の記事で言われている司馬炎の服喪は主にこの件を言っているのではなかろうか。
司馬炎は、「三年の喪」を貫徹したいが立場上それが許されない皇帝がどうすれば良いかについて、身をもって新たな制度を提案・実践したということなのだろう。