『晋書』武帝紀を読んでみよう:その14

その13(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/10/04/000100)の続き。





夏四月戊戌、太保・睢陵公王祥薨。
己亥、祔葬文明皇后王氏於崇陽陵。
罷振威・揚威護軍官、置左右積弩將軍。
六月丙申朔、詔曰「郡國守相、三載一巡行屬縣、必以春、此古者所以述職宣風展義也。見長吏、觀風俗、協禮律、考度量、存問耆老、親見百年。録囚徒、理寃枉、詳察政刑得失、知百姓所患苦。無有遠近、便若朕親臨之。敦喻五教、勸務農功、勉勵學者、思勤正典、無為百家庸末、致遠必泥。士庶有好學篤道、孝弟忠信、清白異行者、舉而進之。有不孝敬於父母、不長悌於族黨、悖禮棄常、不率法令者、糾而罪之。田疇闢、生業修、禮教設、禁令行、則長吏之能也。人窮匱、農事荒、姦盜起、刑獄煩、下陵上替、禮義不興、斯長吏之否也。若長吏在官公廉、慮不及私、正色直節、不飾名譽者、及身行貪穢、諂黷求容、公節不立、而私門日富者、並謹察之。揚清激濁、舉善彈違、此朕所以垂拱總綱、責成於良二千石也。於戲戒哉!」
秋七月、太山石崩、衆星西流。
戊午、遣使者侯史光循行天下。
己卯、謁崇陽陵。
九月、青・徐・兗・豫四州大水、伊洛溢、合於河、開倉以振之。
詔曰「雖詔有所欲及奏得可而於事不便者、皆不可隠情。」
(『晋書』巻三、武帝紀)

明王皇后とは晋武帝司馬炎の母。父は王粛。祖父の王朗から可愛がられていたという。




司馬炎、太守(二千石)の重要性を説く。



三年に一度領内を巡回して統治が行き届いているかを見届け、冤罪をチェックし、農業や学問を振興し、良い人物は褒め、悪事や礼に背く者には誅罰を与える。皇帝の政治を各地に行きわたらせるのは太守の仕事である、という。



当然とも言える事の列挙なのだが、前の代においては郡県と屯田が並立していたので、太守の地位が相対的に低下していたように思われる。この詔は、そういった時代から変化し、太守が領内を統治するという原則に立ち返った事を示していた、などというのは穿ち過ぎか。




洪水発生。黄河の流れが変わったそうなので、かなりの被害があったようである。




また皇帝の詔。皇帝の命令であっても不便があると思われる事は、隠さずに述べるように、とのお達し。



晋王朝は実態はともかく理念としてはなかなか殊勝な事をよく述べている。