明皇帝諱叡、字元仲、文帝太子也。生而太祖愛之、常令在左右。
【注】
魏書曰帝生數歳而有岐嶷之姿、武皇帝異之曰「我基於爾三世矣。」毎朝宴會同、與侍中近臣並列帷幄。好 學多識、特留意於法理。
(『三国志』巻三、明帝紀)
魏の烈祖明皇帝曹叡様は、幼い頃より曹操に可愛がられ、後継者へのお墨付きのようなことまで言われていたのだ、と史書は記している。
そして、「母以子貴」という理屈(後継ぎに選ばれた子の母が貴い地位に就く)からすれば、後継ぎを産んだ甄氏は曹丕の正妻に何歩も近づいた。
いや、これはもう曹操による「甄氏正妻確約」みたいなものなのだろう。
だがこれまでのこのブログ等の記事や曹叡様自身の字(元仲)が示すように、どうも曹叡様は長男というわけでもなかったように思われる。
となると、曹操による「後継者&正妻確約宣言」は、曹丕の本来の長男やその母、あるいはそれ以外の寵姫たち全員にとってはとんでもない事態である。
曹丕の父によって決められてしまっては、曹丕にもそう簡単には覆せないのだから。
曹操が死んでもなお「先帝の遺志」として曹丕を縛り続けることになる。
曹丕が父の意向に背くことは基本的に不孝の誹りを免れないからだ。
そんな「先帝の遺志」を覆すには、渦中の人物が立てるより先に世を去るか、実は不適格であったと認めざるを得ない状態にするしかないわけだ。
そして、多分曹丕はこのあたりの段階で既に甄氏から別の女性へと寵が移っており、正妻を甄氏に決められるのは喜べなかったのではなかろうか。
そうでなくても、別に長男がいるとしたら次男を後継者に決められるなんていうのは色々とヤバい話である。曹丕の後宮の事は全然配慮されていない。
と、このように、曹操と曹丕の間で、「曹丕の正妻(と後継者)は誰がいいか」について決定的にズレがあったのではないか、と思う。
そしてそれが、『三国志』『魏書』等で色々とブレまくって見える記述の正体ではなかろうか。
甄氏を推す曹操サイドと、甄氏を推したくない曹丕サイドが見えない綱引きをしていたような感じだったのではないかと思う。
曹操が死去して間もなく、郭氏が甄氏を讒言し曹丕が死を賜るという陰惨な事態は、こうして生まれたのだと思う。
もし甄氏が「先帝(曹操)から正妻のお墨付きを貰っている」立場でなかったとしたら、郭氏も曹丕も命まで取ることはなかったかもしれない。
曹叡の母として一緒に領国に赴任し後宮を離れるだけのことだったろう。
だがそんなお墨付きを貰っているとなれば、怖い話だがこの世から消えない限り誰も安心できない。