『晋書』武帝紀を読んでみよう:その9

その8(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/09/22/000100)の続き。





夏五月戊辰、詔曰「陳留王操尚謙沖、毎事輒表、非所以優崇之也。主者喻意、非大事皆使王官表上之。」
壬子、驃騎將軍博陵公王沈卒。
六月壬申、濟南王遂薨。
秋七月辛巳、營太廟、致荊山之木、采華山之石。鑄銅柱十二、塗以黄金、鏤以百物、綴以明珠。
戊戌、譙王遜薨。
丙午晦、日有蝕之。
八月丙辰、省右將軍官。
初、帝雖從漢魏之制、既葬除服、而深衣素冠、降席撤膳、哀敬如喪者。戊辰、有司奏改服進膳、不許、遂禮終而後復吉。及太后之喪、亦如之。
九月乙未、散騎常侍皇甫陶・傅玄領諫官、上書諫諍、有司奏請寢之。
詔曰「凡關言人主、人臣所至難、而苦不能聽納、自古忠臣直士之所慷慨也。毎陳事出付主者、多從深刻、乃云恩貸當由主上、是何言乎?其詳評議。」
戊戌、有司奏「大晉繼三皇之蹤、蹈舜禹之跡、應天順時、受禪有魏、宜一用前代正朔服色、皆如虞遵唐故事。」奏可。
(『晋書』巻三、武帝紀)

司馬炎、「三年の喪」を行う。



古来の礼では親の死に対する服喪期間は三年(厳密には丸三年ではなく、また段階がある)とされていたが、漢の文帝は皇帝や親に対する服喪を「日を以て月に代える」つまり三十六日で良いものとした。



だが、その公式な服喪期間を超えて服喪する事を「親孝行である」と称揚する風潮が強まり、歴代司馬氏も服喪にうるさかったと言われている




司馬炎も皇帝になってからも服喪状態を続け、大臣や諫臣たちが何度もやめるよう進言してもやり続けたのだという。




前の王朝の初代にはこういう話が残っているので、前の王朝との違いを殊更にアピールする必要があった、などという可能性もあるだろうか。